松柏の如くに耐え忍び、保有船はタンカーが中心
趣味はカラオケと「ZIPPO」集め

< 第484回 > Wed Jan 01 14:05:00 JST 2020掲載


栄福海運株式会社
代表取締役社長
渡辺 卓己 氏


――栄福海運のご紹介をお願いいたします。


 1984年に先代である父が吉屋海運から独立し1989年に栄福海運有限会社として内航タンカーから始めた会社です。当時私は高校生だったのですが、夏休みなど長期の休みに入ると乗船していました。大学に進学する条件も「休みの日は船に乗ること」でした。90年3月に大学を卒業したあともずっと内航船に乗っていました。93年に親戚が保有していた4,000トンの近海貨物船を購入したのをきっかけに近海船も手掛けるようになりました。97年に先代が亡くなり30歳で跡を継ぎ社長に就任しました。もともと内航でケミカルタンカーを保有していたので、いつか外航でもケミカル船を手掛けるのが当時の夢でした。2004年より外航メタノール船を手掛けるようになり、2008年にはタンカー5隻、貨物船5隻を保有するまでになりました。その後リーマンショックや円高の影響により貨物船を売却し、現在の保有フリートは外航船5隻+内航船1隻となっています。


――「喜望峰の会」の船主さんの中でもタンカーを手掛ける会社は珍しいですよね。


 タンカーは管理の難しい特徴的な船種ではありますが、呉船主でタンカーと言えば栄福海運とおっしゃっていただけるのはうれしいことです。


――今年度より「喜望峰の会」の会長へ就任されましたね。


 いよいよ回ってきました(笑)。この先何年かで私たちの世代から次の世代へと変わっていくときに、喜望峰の会をどう残していくのか?ということをいつも考えています。我々の想いを受け継いでいってほしいと考えています。


――印象に残っているお仕事のエピソードをお聞かせください。


 一つ目は98年に三浦造船で新造船の竣工を受けたのですが、社長になって最初の仕事だったので印象に残っています。「亡くなった先代の形見だ」と融資を決定してくださった呉信金さんの言葉がとても思い出に残っています。二つ目は当時の日商岩井さんと共有した外航遠洋バルカーの新造船案件です。ずっと近海船が中心でしたので遠洋船を手掛けるにはまだ当社の規模も小さく、ファイナンスにかなり難航しました。自分たちだけでは無理となり、日商岩井さんとの共有ということで東京の銀行で融資を受けることができました。遠洋船を私ども単独でできなかったという悔しさはありましたが、それ以上に何よりも夢だった遠洋船をようやく手掛けることができた喜びはとても大きかったです。


――成功談や失敗談はございますか?


 平成元年に先代が会社を設立し、500トン積みの小さな内航メタノール船に親子で乗っていた一船主が、先代の急逝やリーマンショック、円高など数々の困難を経て、たくさんの方々に助けていただきながらここまでやってこられたことが成功じゃないかなと思っています。失敗談は為替に纏わることです。資金調達を円のみで行っていたので、円高時にとても大変な思いをしました。以前喜望峰の会にて瀬野洋一郎さんに講演していただいた時、ドル借入の重要性についてお話されていました。その当時はピンとこなく、「ふーん、なるほどね」程度にしか思っていなかったのですが、後にリーマンショックの円高でまさか自分の身に円ドル為替の影響が降りかかってくるとは思いもしませんでした。素直に言うことを聞いていればよかった・・・。タンカーは長期用船なので途中で更改がなかったことが救いでした。為替と用船期間の関係はとても重要だと勉強させられた出来事でした。


――お仕事以外での失敗談はありますか?


 仕事以外の失敗と言えば、3年前に二階から頭から落ちまして頭を亀裂骨折したことです。タバコを吸うために外にでて席に戻ってきたら社員から「社長!頭から血が出とる!!」と言われ触ってみたら血がべっとりとついて「ほんまや!!」となり救急搬送されました。しかしなぜ頭から血が出ているのかわからないし、記憶がないうちに倒れたのか落ちたのでしょうね。病院へ行くと亀裂骨折ということで二十数針縫いました。3日ほど入院して、いろいろ検査してもらったのですが、どこも異常は無かったのですが、この時、死んでいてもおかしくなかったと思います。失敗談というよりは怪綺談ですね。意識がなくなるなんてこれまでなかったですし、健康状態も良好なので、いったいあれは何だったのだろう?と思います。先代が急逝したこととこの一件もあり「人はいつ死んでもおかしくない」という思いが強くなりました。残された人たちが困らないように色々と準備をしなければいけないですね。


――ご趣味は何ですか?


 カラオケが好きです。ストレス解消になります。歌を歌うようになったきっかけは、内航船に乗っていた時の眠気防止策です。0-4の当直時だったのですが、タバコを吸ってみたり外に出てみたり、いろいろ試みたのですが、歌を歌うことが眠気を吹き飛ばすのに一番でした。上手いかどうかは別にして、ストレス解消・自己満足です。


――十八番は何ですか?


 レパートリーは当時の曲ばかりです。一曲に絞るのはなかなか難しいですね・・・!大阪の歌が好きなので「あんたのバラード」はよく歌います。他には中島みゆきの「糸」も好きですし・・・歌う曲はたくさんありますよ!歌うことはストレス解消と自己陶酔なので「歌っている」というよりは「おらんどる」のほうが近いかもしれません(笑)。
(※「おらんどる」:広島弁で「叫んでいる」のこと)


――歌の他にご趣味はありますか?


 「ZIPPO」をコレクションしています。私の生まれた年のZIPPOを見つけたことが集めるようになったきっかけです。ヴィンテージものや記念モデル、シリーズものなど、集めだすと年代順に全部ほしくなります(笑)。コレクションは700個近くあります。現在使っているものは、1982年製の商船三井さんのものです。「Mitsui OSK Lines」と書いてあります。


――座右の銘をお願いします。


 「雪中の松柏愈々青青」です。寒さの厳しい雪の中でも松や柏は緑の葉を変えないことから、志や節操が固いことのたとえです。高校時代に所属していた広高剣道部のOB会が「松柏会」という名前なのですが、この言葉に由来しています。たとえ辛いことがあってもそれに負けることなく生き生きと信念を持ってやり抜くという気持ちが込められています。


――剣道は今も続けていらっしゃるのですか?


 今はもう休日に素振りをする程度です。竹刀袋に竹刀を2本入れて振っています。中学・高校とずっと剣道部でした。勉強よりも剣道一色な学生生活でしたね。


――最近感動した出来事はございますか?


 保有船が航行している場面や進水式はとても感動します。蒲刈の一船主として199の内航船1隻から始めたわけですから、「少しでも大きな船をやりたい」という思いが強く外航タンカーへの憧れと夢を持っていました。そして今、ありがたいことに外航のタンカーを扱うようになり、この様子を父に見せてあげたかったなと強く思います。


――夢や目標はございますか?


 内航船に乗っていた頃、木江ターミナルにメタノールを積んだタンカー(甲山丸)が隣で荷役していたのを見て、先代といつかはこんな船やってみたいとよく言っていました。ですので、これからもメタノール船をやりたいと思っています。外航タンカーを扱う船主としてはまだまだ小さな会社ですが、むやみに規模を追いかけるのではなく、専務である弟のところを含め、次の世代にしっかりと引き継げるような会社にしていきたいという思いが強いです。


――渡辺社長の思い出に残る「一皿」のエピソードをお聞かせください。


 みなさん美味しかったお料理のお話をされていますが・・・私はびっくりするくらいまずかった一皿の思い出を。子供の頃に食べた父の手作り料理です。休みの日に食わしちゃると言ってがんばって作ってくれたのでしょうけど、みそ味なのかしょうゆ味なのか、さて何味なのかわからない野菜炒めのような料理でした。それがとてもまずかったのです。小学校の卒業文集に「将来の夢はお父さんに美味しい食べ物を作って食べさせたいのでコックになりたい」と書いたくらいです(笑)。


――心に残る「絶景」の思い出をお聞かせください。


 絶景とは全く真逆なのですが、光が一つもない真っ暗闇の上関航路です。内航船に乗っている時の話ですが、前日に大きな台風が山口に上陸、午後徳山で荷揚げ後、上関を通過する頃にはすっかり暗くなっていました。皆寝ていましたので、自分一人だけで操船していました。台風の影響で、街の灯り、橋の灯りも全くなく月明りも無い、なんと灯台も消えていました。本当に真っ暗でした。いつもなら、ここの防波堤の外灯が来たら次の誘導灯に舵を切るという具合が、その目印になる灯台・外灯が無いのです。探照灯とレーダーを頼りになんとか通過しました。通過した時は「あぁぁ」と安堵のため息がでましたし、シビレました。

 

【プロフィール】

(わたなべ・たくみ)
1967年7月生まれ 広島県出身
1986年広島県立広高等学校卒
1990年 桃山学院大学卒 後栄福海運入社・栄福丸乗船
1997年 社長に就任


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