「安全にペニシリンはない」を胸に
ヒューマンファクターの観点から日々、安全運航を支える

< 第491回 > Wed Aug 26 00:00:00 JST 2020掲載


日本船主責任相互保険組合 ロスプリベンション推進部
ロスプリベンションチーム マネージャー 日野 岳彦 氏


――日本船主責任相互保険組合(以下、Japan P&I Club)のご紹介、PRをお願いします。


 P&I保険はProtection and Indemnity保険の略称で、船舶の運航に伴って船主が負う賠償責任やその費用をカバーし、保険金としててん補しています。P&I保険の始まりは19世紀のイギリスにあります。海上の油流出やターミナルの損傷、船骸撤去など、主に第三者損害に対する賠償は貨物保険や船舶保険ではてん補されません。こういった損害について、船主同士が相互に助け合うという理念の下にてん補することを目的として組織されたのがP&I Clubの始まりです。Japan P&I Clubは1950年10月に、アジアに本部を置く唯一のP&I Clubとして設立されました。

 現在、Japan P&I Clubを含めた13のクラブで国際P&Iグループを作っており、IGと呼んでいます。世界の外航船舶の90%がIGに加入しています。Japan P&I ClubはIGの一員として日本やアジアの海運業界の発展とともに成長してきました。今年の10月2日には組合員の皆様のおかげで創立70周年を迎えます。この先も海事クラスターの一員として発展してまいりたいと思っています。


――Japan P&I Clubの組合員数や隻数について教えてください。


 2020年3月31日時点で、内外航合計で組合員が3,158名、加入隻数4,198隻、加入総トン数は約99百万総トンとなっています。内外航の内訳は、外航船保険加入が2,271名、2,310隻/96.6百万総トン、内航船保険加入が887名、1,888隻/2.6百万総トンです。外航船保険では、日本船社だけでなく、海外船社の組合員にも保険を付保いただいています。


――純粋な海外船社の組合員もいるんですね。


 例えば日露航路をもっているロシアの船社など、日本に寄港する航路をもっていることなどから海外船社の組合員もいます。ただJapan P&I Clubはあくまでも日本の船主向けの対応をベースにしているのが強みであり、圧倒的なシェアをもっています。日本の組合員向けに対応する事故対応スタッフには日本人を揃えていますし、事故が発生した時に交わされる書類は主に英文ですが、日本の組合員にはやはり日本語での細かい説明や対応が非常に重要になってきます。


――これまでのご経歴についてお聞かせください。


 2004年に神戸商船大学を卒業後、物流会社の内航船を運航する海運部に配属になり、3年半ほどタンカーやガス船のオペレーションの仕事をしていました。続いて2008年から7年弱の間、自社船の保有から運航管理までを担うタンカー会社で内航船や外航船の船舶管理の経験を重ね、その時の業務の一つに保険事故対応があり、実はJapan P&I Clubへの入社も当時の経験が縁になっています。それまでタンカーの世界しか知らなかった私は、Japan P&I Club入社後の2年間、損害調査部でのP&I保険事故対応を通して、タンカーと他の船種の違いの大きさを体感しました。例えば、貨物を積むためのクリーニング一つとっても、ケミカルタンカーのタンククリーニングとバルカーのホールドクリーニングを比べると、液体を積むのとばら積み貨物を積む違いにより船舶の設備やクリーニングのルール、用船契約上の責任もまるで違います。貨物の積み付けの段階でも、ケミカルタンカーであれば前荷規制、隣接するタンクとの適合性、タンク容積や材質、強度、貨物の性状や温度を念頭に置いてプランニングしますが、ばら積み船では貨物のstowage factorをベースにドラフトを計算し、鋼材を積む場合にはタンクトップ強度、積み付け段数やラッシング資材などを検討しますので、注意すべきことががらっと変わります。同じ海運の世界でもこんなに違うのかと、カルチャーショックを受けました。


――2017年に現職のロスプリベンション推進部に配属になったそうですが、業務内容についてお聞かせください。


 ロスプリベンションとは、「loss:ロス」である保険事故の「prevention:プリベンション」、つまり防止ということで、保険事故を減らしていくための取り組みを行っています。船会社で言うと環境品質安全の部署に近い仕事内容です。具体的には、保険事故やクレームの傾向を見て、組合員向けに特に力を入れてアナウンスすべき内容について検討し、部内に在籍する船長、機関長経験者の知見を生かしてロスプリベンションセミナーを開催するほか、ロスプリベンションガイドやポスター、ニュース配信といった形で情報提供を行っています。今は新型コロナウイルス感染症の影響で対面式のセミナー活動は自粛していますが、例年、船長、機関長経験者による講演を年間100回超、行っており、私自身は年に10回ほど、セミナーの講師を務めています。


――P&I事故に限らず、船舶の事故では船員のヒューマンエラーによるものが多いと思いますが、如何でしょうか?


 事故のタイプによって変わってきますが、P&I保険の取り扱い件数のうち、圧倒的に多いのは船員さんのケガ・病気といった傷病と、貨物のショーテージや水濡れダメージといった貨物損害の二つです。船員さんはまさしくヒューマンファクターそのものですが、貨物損害についてはヒューマンエラーの部分もあります。貨物損害は、どれだけ人間が注意していても、貨物の性状から航海中に変質してしまうなど、貨物固有の性質により、ショーテージや品質損害につながってしまうということもあります。


――人的要因で防げる部分について、注意喚起したり技術向上の支援を行ったりもしていますね。


 皆さんご存知の通り、船舶は飛行機などと比べると人に頼って運航されている部分がかなり大きいので、船員教育というのは非常に幅が広くて深いと思います。そこに少しでも参考になるものを提供したり、サポートを行ったりしていきたいと考えています。


――印象に残っているお仕事のエピソードをお聞かせください。


 2019年に韓国の釜山で行われたタンカー関係者向けセミナーで講師を務めました。「安全行動への心理学的アプローチ」というテーマで、船員や船会社にありがちな不安全行動と心理的要因について紹介しました。例えば、船会社での勤務経験のある方ですと、本船に他の船舶の事故情報や安全に関するチェックリストを配布する時、本船の船長さんから、「お前、誰に向かって言っているんだ」とか「何年、船に乗ってると思っているんだ」などと言われたことはないでしょうか。新人時代、何度も船長に電話越しに怒鳴られた自分を含め、こういった経験のある方は多いと思います。これにも実は誰もが持つ心理的要因があるとセミナーで紹介したところ、参加した韓国の海事関係者から、”面白かった”、”Good presentation!”などと感想をもらったのが印象に残っています。国が違っても同じ海運界の人間として共感を持ってもらえたことを嬉しく感じました。


――船の上でのヒエラルキーには世界共通のものがあるのかもしれませんね。心理面で船長を説得するソリューションにはどんなものがあるのでしょうか。


 まず第一歩としては、陸上の船会社で働く方や船員さん自身も、こういった心理的要因が発動してしまうのは誰にでもある現象だと知ることから始める、ということをお勧めしています。


――休日の過ごし方やご趣味について教えてください。


 小5の息子が昨年からスケートボードに興味をもち、休日は一緒に近所のスケートボードパークに出かけて楽しんでいます。ロスプリベンションではないですが、ヘルメットはもちろん、他にも守れるところは全部、プロテクターを着けて滑っています(笑)。

 趣味としては、フライフィッシングです。自分で作った毛ばりで魚を釣るフライフィッシングの独特の世界観、また釣れる達成感が非常に魅力的で、どっぷりハマっているところです。息子と一緒に近所の池に行って、外来種として嫌われ者のブルーギルやブラックバスを釣っています。


――美しい毛ばりを使うと、釣果も上がるのでしょうか。


 美しい毛ばりは釣果には余り関係なく、いかにきれいなものを作るかという自己満足の世界です。鳥の羽根を使ったりしますので、カラスを見かけるときれいな黒だな、などと、鳥を見る目が変わりました。毛ばり作りはこだわり始めると30分かけても納得のいくものができないくらいに没頭してしまいます。


――小さい頃から釣りがお好きだったのですか。


 父親に連れられて川で毛ばりを流したり、池に釣りに行ったりしていました。小学生の頃には子供達だけで池に釣りをしに行って学校の先生に怒られたこともありました。


――座右の銘についてお聞かせください。


 船会社にいた当時、海難事故やトラブル、船舶検査対応など業務に追われている中、ILO(国際労働機関)によるMLC条約(2006年海上労働条約)の発効を受け、auditの立ち会いで外国の船級協会の方と一緒に乗船した時のことです。いくらやっても事故やトラブルが減らないと、ついこぼしてしまった私に、船級協会のその方が言われた「安全にペニシリン(特効薬)はないんですよ」という一言が今でも印象に残っています。この言葉は、自分が安全という終わりのないゴールを目指す原動力にもなっていますし、今では船舶のサイバーセキュリティという新しい分野がありますが、安全運航の考え方とも似ている部分があると思っています。


――最近気になっていることについてお聞かせください。


 事故防止、ロスプリベンションという視点でのヒューマンファクターです。航空業界ではヒューマンファクターについてかなり早い時点から研究されていて、飛行機の操縦自体の自動化が進んでいます。本船の船橋内でのヒューマンエラーを防止するBRM(Bridge Resource Management)はもともと、飛行機のCRM(Cockpit Resource Management)を参考にして研究されているものでもあります。今後、海運界の自動運転の技術開発が一層進むに当たり、航空業界におけるヒューマンファクター研究に関心を寄せています。


――思い出に残っている「一皿」についてお聞かせください。


 「一皿」というよりは一場面ですが、今の奥さん、当時の彼女の実家に初めて挨拶に行き、お昼ごはんを出してもらった席で、緊張の余りお味噌汁のお椀をひっくり返してしまったことがいまだに忘れられません(笑)。

 また食べ物については、私、おやきが名産の長野県出身でして、小さい頃には祖母の作った野沢菜のおやきをよく食べていました。「たんぼ」という戸隠そば店では珍しく「そばおやき」というおやきを揚げたものがあり、いわゆる一般的なおやきとは全く違った味わいです。大人になった今では、家族で長野に帰省した時、スキーをするついでにこの「そばおやき」を買いに行くのが楽しみです。


――思い出に残る絶景についてはいかがでしょうか。


 これもまた長野ネタですが、黒姫山の雪景色をふもとから見た景色がとても好きです。東京にいて「今日も富士山が見える」と言うような感覚ですね。長野市内からは大きく見えて存在感があり、プリンのような形から地元では信濃富士と呼ばれています。



【プロフィール】

(ひの・たけひこ)
1981年生まれ 長野県出身
2004年 神戸商船大学商船学部卒業、内航船社に入社
2008年 内外航タンカー専業船社に入社
2015年 日本船主責任相互保険組合に入社
2017年 ロスプリベンション推進部に配属
2019年より現職

■日本船主責任相互保険組合(https://www.piclub.or.jp/


記事一覧に戻る