愚直さが生んだ営業時代の出会い
本船という「現場」での気付きを大切にして

< 第492回 > Thu Oct 01 00:00:00 JST 2020掲載


三菱鉱石輸送株式会社
代表取締役副社長 小笠原 和夫 氏


――三菱鉱石輸送株式会社のご紹介、PRをお願いいたします。


 戦後の復興後、八幡製鉄所(現:日本製鉄)向けにチリの鉄鉱石を輸送する鉱石専用船の保有会社として、1959年に設立されました。現在は日本郵船と三菱商事が二大株主となっています。会社の柱である国内大手鉄鋼メーカー向けの鉄鉱石輸送に加えて、海外オペレーター向けに貸船するオーナー業では、海運バブルの時期を中心に、アセットプレーを行っていた時もありました。ただ海運バブルの終焉とともに収益面が厳しくなり、今は弊社鈴木社長の下、アセットプレーから「コントラクトプレー」への転換を掲げ、長期のコミットメントを求めていく方針で取り組んでいます。そうは言っても簡単なことではなく、20隻のフリートを活用し、従来からのお客様である国内大手鉄鋼メーカー、そして海外の荷主系のお客様とのお付き合いを基盤として、将来、いかに長期契約につなげていくかが今の弊社の課題です。


――フリートラインナップについて詳しくお聞かせください。


 日本郵船向けに自動車船とチップ船をそれぞれ3隻保有しており、日本郵船が最も多い契約先となっています。バルカーはケープサイズ2隻、ベビーケープ1隻、カムサマックスを4隻、パナマックスを7隻保有しています。そのうち今年の1月に竣工したM/V”SANTA ISABEL”(208,072 Dwt)は14年ぶりのケープサイズの新造船となり、自社運航船として、代々引き継がれてきた国内大手鉄鋼メーカー向けの鉄鉱石輸送を担っています。他に海外オペレーターや荷主向けに5年~7年の期間で定期用船に出しており、アルセロール・ミタル向けの定期用船が1隻、またこの1年間ではリオ・ティント向けの短期用船が3隻と、国内客先だけの状況から変わってきている段階です。

 弊社はオーナー・オペレーターとなっていますが、オペレーターとしては前述の国内大手鉄鋼メーカー向け1隻のみで、実態としてはオーナー業を主としており、どれだけオーナーとしての価値を上げられるかが課題です。昨今、本船を保有して自社管理するということがいかに難しいか、日々の努力を積み重ねていかないとできないということを改めて、実感しているところです。


――船舶管理について教えてください。


 弊社では、オーナー業としてのクオリティを一層高める目的で、2010年にフィリピンにマンニング会社を合弁で設立しています。フィリピンの場合は資本規制がありますので、現地資本75%、弊社資本25%で設立されていますが、実質は弊社が管理するマンニング会社となっています。こちらで乗船前や休暇中のセミナーやワークショップを行い、船員のレベルアップを図っています。このように愚直なやり方で船舶管理の質を上げて行く努力をしていますが、それだけで安全に万全を期すことができるというわけでは無いと理解しています。


――自社のフリートにそのマンニング会社から自社船員として配乗しているのですね。


 そうです。ただフィリピン人船員の場合は長期雇用ではなく、都度の契約になりますが、弊社の場合、船員が休暇後に再契約して戻ってくる割合は97%程度です。


――すごいリピート率ですね。ほとんどすべての船員が戻って来ていることになりますね。


 そうですね。ただ弊社の場合は規模が小さく、継続して乗船しているのは750人くらいです。鈴木社長以下、私や関係者で定期的にマニラやその他の島を訪れ、船員たちとワークショップを開催しており、日中は様々なケーススタディを行い、夜は会食で交流を深めています。本船の日本寄港時には我々も乗船して、作業着を着て本船全体を見回り、その後、船上でワークショップを行うなど、だいぶ愚直なことをやっています。日本郵船から弊社に来て、本船に乗船する機会が増え、ずいぶんと発見があり、船に乗って一回りすれば、整理整頓が行き届いているのかがわかり、よくメンテナンスしている船だとすぐにわかります。同じように教育していても船によってコンディションが違います。


――トップに立つ船長の指導によるところが大きいということでしょうか。


 そういうことになります。また、鈴木社長が導入したものに、「アドバンスト・クルー」制度があります。本船のトップ4である船長、機関長、一等航海士、一等機関士のみならず、次世代のトップ4を担う優秀な若手船員を選抜して、その自覚を促すとともにリーダーシップ教育を施し、乗船時には本社と連携し細部にわたる安全管理の役割を与えることにより、全体のレベルアップを図ろうという取り組みがあります。本船のパフォーマンスが上がることでお客様の評価が上がり、それによってお客様とのより良い契約につながっていくと考えています。また、最近では様々な業界から、現場からの発見を重んじることの意義が指摘されていますが、そういった意味では海運業には現場があり、それこそが弊社の強みです。現場での「気付き」に耳を傾ける努力をすれば、船員もそれに応えてくれます。弊社では毎週、本船ごとに「気付き」をレポートしてもらうようにしており、こうした取り組みを通じて、小さな会社ではありますが、一人ひとりが様々な化学反応を起こすことができると感じています。


――これまでのご経歴についてお聞かせください。


 36年間、日本郵船におりまして、2年前から弊社に移って来ました。日本郵船時代には、最初の7年はコンテナ船部門、次の8年半ほど自動車船部門を、その後、広報やITを経験し、最後の14年間がドライバルク部門です。皆さんからドライバルクの人間と見ていただいているかもしれませんが、自動車船部門は若い時分、課長代理になる前から課長昇進前まで在籍しており、いわゆる実務を通じてキャリアを重ねることができたと思っており、自分のベースはどちらかと言うと自動車船だと思います。


――座右の銘についてお聞かせください。


 以前はよく「人間万事塞翁が馬」と答えていましたが、言い古された感があり、では何かと聞かれると、「愚直」とか、「一生懸命」といった言葉に尽きると感じます。営業部門が長かったので、これまで色々なお客様にお会いしてきました。中には、周りからは難しいお客様だと言われながらも、お会いしてこちらが一生懸命やっていると、何となく通じ合うところがあって、一旦通じ合うとずいぶんとかわいがっていただきました。


――難しいお客様もほだされてしまう、小笠原さんの人徳ですね。


 いい出会いに恵まれたと思います。当時は大変だったのかも知れませんが、今にしてみると素敵な方ばかりですね。器用な人間ではありませんので、一つずつ地道にやっている間に、ほんとはこうなんだよ、と逆に教えていただき、また飲もうと声を掛けていただいて、今に至るまでのお付き合いに深まっています。


――お仕事で一番印象に残っていることをお聞かせください。


 一番記憶に残っているのは、自動車船を担当していた頃のことです。当時は世界的に自動車船が足りず、ある商社からの商売で、ジャマイカのキングストン向けに自動車を1台ずつ吊り上げて冷凍船で輸送する手配をしていました。それが船積みの3日前に全量キャンセルになったのです。頭の中が真っ白になりました。そして、デッド・フレート(不積み運賃)を請求するため、その商社のオフィスへ向かおうとした間際のことです。当時の課長から、「俺だったら請求しないけどな。」と一言、言われたのです。その場では全く意味がわからず、地下鉄に乗ってオフィスに到着し、担当の方にお会いした瞬間、不意に、「今回の件のデッド・フレートは結構です。」という言葉が出てしまいました。後日談ですが、お客様は商社の運輸部だったことから、営業部門がキャンセルした商売では運輸部に口銭は全く入らず、デッド・フレートを請求されても払う原資がないため、非常に難しい話になっていたと聞きました。その後の1年ほど、そちらの運輸部で采配できる商売は全部、まず日本郵船にお話をいただくというようになりました。実はその面談前に、当時の冷凍船部門の課長の長澤(現:日本郵船社長)に、350台積み冷凍船1隻、全量キャンセルになったと報告する際、電話口でぼろくそに怒られると思っていたのですが、予想に反して、お前その商売、本当になくなったんだな、わかった、という言葉で電話は終わりました。後で聞かされたのは、商売がなくなった以上、文句を言うよりも何よりもまずは船をどこに回すかが大事だった、とのことです。長澤との電話と課長の一言があったからこその、忘れられない経験です。人生の中で、仕事ってこういうものなのかな、と考える転機にもなったと感じています。


――休日はどのように過ごされていますか。


 これと言った趣味もないのですが。。。3か月前、保護犬を引き取り、飼い始めました。名前は、茶色くて小麦色なことから娘が「コムギ」と名付けました。引き取る時はメスだと聞いていたのですが、実際にはオスでした。今は朝5時に起きて散歩に行って、夜、家にいればもう一度、出かけます。犬種は純粋な雑種ですね。(笑)


――最近気になっていることについてお聞かせください。


 次期総理大臣候補の話題もありますが、中長期の日本のあるべき姿についてです。1980年代に「ジャパンアズナンバーワン」と言われた時期もありましたが、以来、今に至るまでに凋落してしまった要因の一つに教育の問題があると思います。当時、アメリカのレーガン政権は教育でアメリカが諸外国に劣っているということで、教育方面の施策に莫大な資金を投じたと聞いています。その後、1996年から4年間、ニューヨークに駐在し、当時、娘の通っていた公立小学校の先生の質が非常に高いのが印象的でした。それなりの給与を得ているからこそ、そういった優秀な先生方が集まってくるのだと思います。日本の場合、公立学校の先生の待遇の悪さが指摘されていますが、様々な報告作成よりも、児童・生徒に向き合う時間を十分に作り、それに専念できる教育環境を整えてもらいたいと思います。江戸時代以来、日本の強みは一般庶民の教育レベルの高さにあり、寺子屋での学びを通して、6割以上の識字率があったと聞いています。これは当時の世界では極めてまれなことで、のちの明治維新、加えて経済成長につながっていったとされています。ニューヨーク駐在時代に娘が経験した小学校でも、科目ごとに数名ずつの習熟度別にクラスが分かれていて、重要なのはどこかでキャッチアップすること、というものでした。わからないまま落ちこぼれるのではなく、追い付いていくことのできる教育システムを日本の公立学校でも導入すべきだと感じています。


――思い出に残っている「一皿」についてお聞かせください。


 日本郵船で自動車船を担当していた頃、出張先のアルゼンチンで食べたステーキです。ブエノスアイレスのラプラタ川沿いにステーキ屋さんが並んでいて、南米は夜が遅いので、22時頃にようやく満席になります。赤身で骨付きの分厚いステーキをひたすら、現地で定番のメンドーサの赤ワインを片手に食べるというもので、忘れられない味です。


――思い出に残る「絶景」はございますでしょうか。


 入社3年目の鉄道研修で、初めて海外に行き、その中でカナディアン・パシフィックという鉄道会社での研修がありました。当時、バンフ近郊のレイク・ルイーズに行く機会があり、とにかく青い湖で、素晴らしい景色でした。



【プロフィール】

(おがさわら・かずお)

1958年生まれ 東京都出身

1982年 慶應義塾大学経済学部卒業、日本郵船株式会社 入社

2006年 製鉄原料グループ長

2013年 取締役

2018年より現職

 

■三菱鉱石輸送株式会社(https://www.mot-tky.com/


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