錆つく貨物船に惹かれた学生時代
バルカーの変遷と共に営業の前線を走り続けてーー

< 第494回 > Tue Dec 01 00:00:00 JST 2020掲載


第一中央汽船株式会社
代表取締役社長 江川 俊英 氏


――2016年8月に民事再生手続きを終え、新たなスタートを切ってから5年目となる節目を迎えた第一中央汽船です。まずは、現在のフリートラインナップについて教えてください。


 全体で95隻から100隻で、主力であるケープサイズ、ポストパナマックスといった大型船やハンディサイズが合わせて45~50隻、近海船が30隻、また内航船が20隻程度です。過去にはタンカーを第二の柱にVLCCやLPG船、さらにPCCも所有していた時期がありました。会社の事業バランス確保の観点からはタンカーやガス船も所有してポートフォリオ化するのも一つの方法ではありますが、我々としては原点に立ち返り、祖業であるドライバルクに特化しているのが現在の状況です。


――ハンディサイズや近海船については、過去には嵩上げ型のハンディサイズといった非常に特色のある船で効率的な輸送を行っていましたが、大型船でもそうした例はありますか。


 以前は他社との差別化を図り、ギア付きのパナマックスを投入していたこともありましたが、現在では大型船で特殊なタイプは取り扱っていません。ハンディサイズや近海船も基本的にスタンダードなデザインをラインナップに並べています。特殊船が最適船型ではあるものの、建造船価が割高になることで競争力を持たなくなりますし、建造隻数も限られてしまいます。昨今、海運会社間の競争が厳しくなっており、世知辛いかもしれませんが、船価の安さにウェイトが置かれているのが現状です。


――安い輸送力、競争力第一といった感じでしょうか。


 ただそれにはとどまらず、最近では一部の荷主から質の高い輸送サービスへのニーズが出ています。団塊の世代の大量退職などで、国内の工場の作業現場でノウハウの豊富な熟練労働者の数が減っています。そのため、荷役トラブル発生時に備えるなどのために、船会社が本船にアテンド要員を出すなどサポートを行う場面があります。こういったサービスが荷主の評価を得ている印象があります。


――第一中央汽船は日本製鉄の荷物を運ぶというインダストリアルキャリアとしての性格がありますが、その鉄鋼を代表例に日本の産業自体が先細りしていく中、陸上サイドの現場のノウハウも蓄積されづらいものになっているということですね。そうした部分も補う手厚いサービスを提供する必要が出ている一方、長期的に見ると荷物のボリュームは減っていきますよね。


 この会社は現在の株主である国内船主や造船所はもちろんのこと、それ以外にもボイラーメーカーやブローカーなど様々な方々から過去、社債という形でご支援いただきました。日本の海事産業の皆様からの支えがあって初めて、我々の今があるのであり、世界的に見てもこのような再生例はないと思います。日本人の絆の中で存続できている以上、日本の産業界に我々が良質なサービスを提供することで、口幅ったいですが少しでもお返しができればと考えています。そのためにまずはドライバルクの中堅オペレーターとして、ご支援いただいている海事産業のチェーンの中で着実に歩みを重ねていきたいと思います。日本の産業界は確かに長期的に見れば先細っていくと言われていますが、質の高いサービスを提供していけば、我々の事業規模で必要とする貨物を集荷できる余地は十分にあると考えています。国内だけでなく、当然、鉄鉱石、石炭やバイオマス燃料といったような海外荷主の貨物についても、我々のネットワークで取り組めるものについてはチャレンジしており、輸送実績を重ねています。


――バイオマス燃料と言えば再生可能エネルギーの一端を担っていますが、今後の環境規制対策について、例えばLNG燃料化についてはどうお考えですか。


 今後、必要に迫られた場面で対応できるよう、準備を進めているところです。幸い、過去のLPG船の運航管理で蓄積したノウハウがあり、生かせる部分があると考えています。


――これまでのご経歴についてお聞かせください。


 1981年に第一中央汽船に入社して以来、2016年の社長就任まで、ずっと営業畑でした。


――どのような船種を担当されていたのでしょうか。


 ドライはケープサイズ、パナマックス、ハンディマックス、ハンディサイズで、タンカーは定期用船に出していた形ですがVLCCやLPG船、それに自営していましたがケミカルタンカーです。


――ほぼ全ての船種を知り尽くしていらっしゃいますね。中でも、一番親しみを感じる船型はありますでしょうか。


 経歴が長いという意味ではハンディマックスです。


――例えば現在のハンディサイズのスタンダードである37,000Dwt型は過去、ハンディマックスの最小船型だとされていましたが、こうした船型大型化の変遷についてはどう感じていらっしゃいますか。


 大型船型が竣工するのに合わせてカーゴサイズが大きくなっていき、それに伴って運賃に競争力が出るので、当然、需要家も大型化を指向することになると思いますが、ハンディマックスで言えば64,000Dwt型が限界だと感じます。昔のギア付きパナマックスのサイズですね。


――印象に残っているお仕事のエピソードについてお聞かせください。


 ニューカレドニアから韓国向けのニッケル鉱石輸送の商売を成約出来たことです。2007年に現地で工場が立ち上がる前から足を運び、まだセメントを塗っている最中の事務所の横を歩いて、我々のサービスについてプレゼンするなど、1年半の間、訪問を繰り返して、最終的にはハンディマックス4、5隻に相当する全量を引き受けることになりました。日本人なのによく取れた商売だなと思います。


――江川社長はインド関連のご商売も多かったようですね。第一中央汽船と言えばインドという印象があります。


 会社としてもインド関連で様々な取り組みを行っていたことがあり、それぞれが楽しんでやっていました。私は1995年に実質初めての単身での海外出張でインド一周を命じられました。最初に着いたのはマドラス(現 チェンナイ)だったのですが、翌日入院する羽目になってしまいました。


――お腹をこわしてしまったのでしょうか。


 現地で腎臓結石になってしまい、マドラスの病院に二泊三日したのですが、携帯電話のない当時、本社では、「江川、インドで行方不明」と騒ぎになったそうです。結局、現地代理店経由で連絡がついたのですが、その後、結石が出てからはスケジュールを変更しつつ、ボンベイ(現 ムンバイ)、ニューデリーと出張を続けて帰国しました。帰国して3カ月後の1996年にもう一度インドに出張に行ったのですが、帰国後、またしても腎臓結石で1週間入院することになり、腎臓結石を出したかったらインドに行け、という感じでした(笑)。


――話題は変わり、ご趣味や休日の過ごし方について教えてください。


 週末、近所のカフェのテラス席で読書をすることです。


――素敵ですね。これは読んでおくと良いというような本はありますか。


 だいぶ昔ですが、堀米庸三さんの『世界の歴史(3)中世ヨーロッパ』(中公文庫)です。内容は、中世の都市市民たちの中から自分たちが生き抜いていくためのルールがどのように作られてきたかというもので、世界連盟、世界連合につながっていくような話に引き込まれます。

 また早朝からあてどなく一人で車を運転するのも休日の楽しみです。身体能力をはるかに超えたスピードで移動できるのが快感で、すっきりしますね。訪れる先々、その土地土地の生活を素通りする旅人のような、異邦人のような感覚があって、週末ごとにふらりとアクセルを踏みに出ては戻ってきます。


――座右の銘について教えてください。


 座右の銘ではないですが、私、せっかちなもので、いったん立ち止まり「急がずゆっくりと」考えてみようと自分に言い聞かせています。ただ忘れるんですね、この座右の銘は(笑)。


――人生の転機についてお聞かせください。


 転機という事ではないのですが、大学で歴史学科か、それとも法学部や経済学部など船会社につながる道に進むか迷っていて、もちろん文学部に行っても船会社には行けるのでしょうが、当時は大きな選択でした。最終的に船会社を目指して法学部に進むことに決めました。


――大学入学前から船会社に入ると決めていたのですね。


 漠然と大きいものが好きだったのかも知れません。当時、横浜港に行くと、ちょっとさびの色がついた日本郵船の在来船「Kシリーズ」や商船三井の「からかす丸」が停泊していて、働いている船に何故か惹かれるものがありました。船会社への道を目指したので、大学卒業前に就職で迷うことはありませんでした。


――商船マニアなのですね。


 


――続いて、思い出に残っている「一皿」についてお聞かせいただけますでしょうか。


 妻が愛媛県松山市出身で、帰省のついでに立ち寄った料亭旅館「おしまや 別荘」の炊き合わせは、ワタリガニの風味が豊かで絶品でした。来島海峡の景色を眺めつつ、瀬戸内の滋味を堪能しました。


――心に残る「絶景」についてお聞かせください。


 妻との旅行で訪れたタヒチのボラボラ島です。島をぐるっと取り巻くサンゴの環礁に、美しい内海(ラグーン)が本当に素晴らしいものでした。

 また絶景ではないですが、1か月間の乗船研修で西豪州間の往復航海の船に乗っていたある夜のことです。新月の夜、星明りで自分の手のひらが見えたのには感動しました。


――乗船研修では一息つけるひとときもあったのではないですか。


 それが11名乗組員体制の超近代化船で、船内どこへ行っても、皆、寝ているか仕事をしているかで、人の姿を見かけないのです。揚げ地でメンテナンス要員を確保しているのですが、停泊時間がわずか2、3日の場合もあったりとタイトなだけに、洋上でもメンテナンスすることになるのですが、船上の人手が足りないのです。船員に交じってスラッジの掃除を手伝うこともありました。


――船員さんが休む暇もないのではのんびりできないですね。当時すでに省力化の取り組みをしていたということで、現在議論されている自動運航船を想起させます。


 本船より1年前の1982年に竣工した船にはボイスコントローラーという装置を載せていて、船長の声質を記憶させてエンジンを始動させたりしていました。ただうまく声を認識せず、順調にいかないこともありましたね。


――当時はまだ技術が足りていなかったのでしょう。それにしても目的は違ったのでしょうが、40年も前に新技術を導入して省力化に取り組み、試行錯誤を重ねていたというのは、感慨深いものがあります。これからの日本海事業界に対しても示唆がある気がします。


 



【プロフィール】

(えがわ としひで)

1958年生まれ 東京都出身
1981年 早稲田大学法学部卒業、第一中央汽船 入社
2010年 大型不定期グループ長
2011年 理事
2013年 執行役員
2015年 取締役常務執行役員
2016年より現職

 

■第一中央汽船株式会社(https://www.firstship.co.jp/index.html

 


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