第1話 松太郎 堺で船乗りになる (大阪 堺港)

更新日:2019年10月1日

<「船乗り松太郎が行く」とは>
著者は、『船乗りは無冠の外交官』という言葉の響きに感動・感化され、船乗りをやりながら 「日本人として恥ずかしくない行動を」「日本人の良さを微力ながらも外国人に伝えよう」と自分に言い聞かせてきた。彼は乗船時の体験、出会った人々のことを、エピソードごとに書き留めてきた。それはいまでも興味深いものがあり、全21話を週刊で紹介します。

<著者>
野丹人 松太郎(のたり まつたろう)
略歴:海運好況時に大学へ入学し、大不況の1970年代後半に卒業。卒業後、当時は少なかったマンニング会社に就職し23歳から29歳まで様々な商船に乗船した。その後、船舶管理者として勤務し、現在も現役。

6000トンに乗船

 暗闇の中、ドアを叩く音で目が覚めた。 記憶をたどりながら寝ぼけ眼で時計をみると午前9時を回っている。 「ヤベーっ、寝過ごした」。
部屋のドアを開けると若い フィリピン人が喚いている。 英語らしい言葉を発しているのだが、全く頭に入ってこない。が、身振りと『Chief Engineer』 という単語を組み合わせると どうも 「Chief Engineerが カンカンに怒っている」、「早く起こして機関室に連れてこいと言われた」と伝えたいらしいのが判った。 すぐ着替えて 機関室に降りていく旨を身振りで彼に伝え 帰らせた。  
そう、私は昨日 1900時過ぎにシンガポール船籍の本船 MV GW号(船主はXX洋汽船(6,000dwt)に乗船したのだ。  
しかし、日本人機関長と一航士は上陸して 本船には居らず、船長がいるだけであった。 船長に挨拶して、部屋に案内してもらい、乗船荷物を部屋に入れ、彼らの帰りを待っていた。 しかし、2400時を過ぎても帰って来ないので そのまま 寝てしまい、寝過ごしてしまったのだった。

混乗船で船乗り生活スタート

 機関室に降りていくと 怒り心頭の若い日本人機関長 (32~35歳)が仁王立ちしていた。 彼は私を睨めつけて
「ばかやろう、乗船する時は 午前中が常識だろう」、「昨日は朝から夕方までずーっとお前を待っていたのに 何時まで経っても来やしねェ 」「呆れて1700時過ぎ、一航士と飲みにいったのだ」
(そうですか、そうですか すみませんでしたね)と頭の中で返事。
「俺が船に帰ったら、お前は乗船して寝ていた」
「夜も遅いので起こさなかったが、今朝の0800時前には機関室にいるだろう」と思っていたら居ない。 そして」
「なかなか 部屋から出て降りて来ない、待ちきれなくなって 起こしにやったのだ。」
「商船大卒を鼻にかけて、俺をなめてんのか!」だって。
(別に鼻にかけてもいないし、舐めてもいません。期待に添えなくて、 ゴメンナサイね)(早く怒り収めてよ! 自己紹介もできないだろう)と頭の中で反抗。
※ 後で聞くと機関長は商船大に対して異常なライバル意識を持つ大学の出身であった。
機関長に常識外?の乗船及び今朝の寝坊を丁重に侘びた。 そして、彼の怒りが収まったところで比国人クルーに自己紹介を行った。
「ハウドゥユードゥ、I am Matsutaro Notari. Chief Engineer Assistant. これから ヨロシク!! 」 ……
こうして 私の船乗り生活が始まったのであった。

7カ月目に機関部の長に

 その後の本船生活は、毎日、0800時前に機関室に降りていき、機関長の指示を一機士   (比国人 27歳)以下に伝え, 0800-1200当直に立直、昼食後1200-1600当直に入り 夕食後 若いくせにアル中気味の機関長に 当日の機関現状、比国人クルーの当日作業をウィスキー(サントリー角瓶)を飲みながら伝えるのが日課となった。ウィスキーは二人で 1日 1本空けるのがノルマで 空いた時点でお開きとなるのが常であった。

船長 W氏: 商船の乗船経験が少なく、商船はほとんど何も判らない人であった。来島海峡通峡時 操船号令も出さずに震えて船橋に立っていたのを比国人クルーに見られたことから、全く威厳を失い 失意のうちに下船。交代で乗船してきたのは 船乗りの多い石川県 能登半島出身の無口な鉄面皮 I氏であった。

機関長 K氏: 広島出身で未だ若いのに昼間から酒を飲むような、困ったアル中だった。良く二人で酒を飲んだ。 私の乗船後6カ月目に 機関長室で一航士と酒の席で喧嘩、一升瓶を叩き割り、二人とももみ合いながらその欠片で足を切り、血だらけになった。それが原因で機関長は強制下船され、降りて行った。 結婚して8年経っていたが子供がおらず、舞鶴港入港時には赤まむしドリンク3本飲んで 「今日は帰船しないから」 と意を決し、奥さんの待つ宿に向かっていく恐妻家でもあった。 交代者は何故か比国人機関長となった為、私は 乗船後7カ月目にしてChief Engineer Assistantから機関長より上席のEngine Supervisorとなってしまった。

一航士 A氏: 人の良い叩き上げの船乗りで、比国人クルーから慕われてもいたが、機関長との喧嘩により 喧嘩両成敗で下船して行った。出身県が同じなので 良く面倒をみてもらった。

松太郎: 比国人機関長乗船後、良く頑張ったがたった7カ月の乗船経験では機関部の長として勤めを果たすのは無理だったようで、Engine Supervisorとして1航海乗船したが、「3機士からやり直したい。次回乗船は3機士で!」と言い残し下船。