第11話 屋根裏部屋とホンダ製バイク(Milford Haven)

更新日:2019年12月3日
ミルフォードヘブンに停泊

 松太郎の乗った船はイギリス・ウェールズのミルフォードヘブン港に停泊していた。
 英語の母国、産業革命発祥の地。
『クィーンズ英語(Queen’s English)』を初めて聞ける楽しみがあったが、ミルフォードヘブンでは方言のウェールズ語を話すとのことだった。 
 髪が伸びた松太郎は土曜日の午後、3機士と一緒に散髪屋に向かった。
 『Barber』の看板を掲げている床屋を覗くと、背の低い店主がカミソリを持ったまま、手の裏をこちらに向けて手首を何度も返している。
 顔を見ると怒り顔である。
 東洋人である松太郎らを嫌って客として店に入れたくないらしい。
(今でも床屋風情でこんな態度を取る奴がいるんだなあ)と松太郎。急にジョンブル魂というやつが嫌になった。

インド人の床屋でさっぱり

 ムカツク心をクールダウンしながら街中を歩いているとインド人の『Barber』が見つかった。今日の目的、散髪は達成できそうである。
 それにしても、あの背の低い床屋店主め!毛唐野郎のアホ野郎である。
 しかしまあ、無理やり店に入って散髪させたら、映画『ゴッドファーザー』みたいにカミソリで喉を掻き切られたかもしれない。
 散髪を済ませたので、小さいミルフォードヘブンの町を散歩してみることにした。

小さな家の前に少年が

 港の全景を見てみたいと思い、小高い丘の住宅地を散歩していると、ホンダのバイクを一生懸命拭いている高校生もどきの少年を見つけた。
 喜々としてホンダのバイクを磨いている。少年の家はそのすぐ前にあった。屋根裏部屋のある、庭もない小さな家である。
 隣近所も似たような屋根裏部屋付き小さな家が並んでおり、広い庭なんかどこを探しても見えない。
 日本の小説家やマスコミは、イギリス貴族の大きな庭園のある城みたいな家をイギリスの家だとし、日本の家を『ウサギ小屋』と卑下して表現するが、目の前の情景を見たことがあるの?
一つ見て全てを見たような文章を書いてるんじゃないかな?

バイトでホンダのバイク購入

 小さな屋根裏のある家、中古と思われるホンダのバイクを熱心に磨いている少年、これらは日本の一般家庭と全く変わりがないではないか。なんで日本の家を『ウサギ小屋』などと卑下するんだ!と言いたくなってくる。
 「君はホンダのバイクが好きなんだね」
 「うん、HONDAもYAMAHAもKAWASAKIも、日本のバイクは大好きだよ」
 「どうして?」
 「格好いいし、故障しない。バイクを触っていると落ち着くんだ」
 「お父さんに買って貰ったの?」
 「自分でアルバイトして稼いで買ったのさ、だから愛着が湧くんだ」
 少年と会話していると、中学や高校時代のバイク好きな友達と会話しているようだった。
 少年は未だ夢を見て、夢を追っかけることができるのだ。目が輝いていてすばらしい。

小学校の先生の嘘が

 少年は、ウェールズ生まれで普通のイギリスの小学校を卒業したと思うので聞いてみた。
 「算数で『九九』は習った?9×9はいくつか言える?」
 即座に「81」と言い返してきた。
 やっぱり言えるんだ。
 小学校の先生が「九九を言えるのは日本人とインド人だけ。インド人は12x12まで言える」と教えたけれど、彼女は井の中の蛙的人間で世界を見てなかったのだ。
 小学生に知ったかぶりしてウソを教えてはいけない。

安物のイギリス製スーツ購入

 船に帰って、荷役を見ていたら、ウェールズの港湾労働者(ステベ)は 三つ揃いの背広を着てホールドに入って仕事をしているではないか、びっくりした。
 背広は、ホワイトカラーのサラリーマンが着るもので、ブルーカラーの港湾労働者等はボイラースーツや作業着を着て作業するのが日本の常識。ここは違うのか?
 良く観察してみると、スーツはアクリル製の粗末なものだった。アルマーニの高級スーツではなかった。ホッとした。
 町中の洋服店で値札を見たら、ステベが着ていたスーツに似たようなデザインのものはほんとに安いものだった。
 そこで、思わず松太郎は安物の茶色のイギリス製スーツを買ってしまった。サラリーマンする時のスーツに使おうと思ったのだった。

<「船乗り松太郎が行く」とは>
著者は、『船乗りは無冠の外交官』という言葉の響きに感動・感化され、船乗りをやりながら 「日本人として恥ずかしくない行動を」「日本人の良さを微力ながらも外国人に伝えよう」と自分に言い聞かせてきた。彼は乗船時の体験、出会った人々のことを、エピソードごとに書き留めてきた。それはいまでも興味深いものがあり、全21話を週刊で紹介します。

<著者>
野丹人 松太郎(のたり まつたろう)
略歴:海運好況時に大学へ入学し、大不況の1970年代後半に卒業。卒業後、当時は少なかったマンニング会社に就職し23歳から29歳まで様々な商船に乗船した。その後、船舶管理者として勤務し、現在も現役。