ペルーのパイタ港に停泊
松太郎乗船の船はペルーのパイタ港にいた。街は港から離れた高台にあった。
昨日、写真の現像とフィルム買いに行った甲板手のOが「日本人がいたョ、写真屋さんでサー。『去年のNHK紅白歌合戦のビデオがあるから、皆で見に来てください』と言われたョ、だから皆で見に行こうぜ」
翌日、司厨長を脅しあげて米・味噌・醤油・みりん、それに料理用に買っていた日本酒を強奪。
雑誌や単行本をかき集めて集結し、タクシー2台に分乗して、甲板手Oを道案内に松太郎以下8名がくだんの日本人写真屋さんに向かった。
山梨出身の写真屋さん
写真屋さんは、山梨県出身で甲板手Oと同郷だったのが幸いしたらしい。県の歌、甲斐の国の歌を昨日、一緒に歌って望郷の念に耽ったらしい。
写真屋さんに着くと、人のよさそうな主人が待っていた。
店の奥から出てきた奥さんに「お世話になります」「こんばんは、宜しくお願いします」「日本の土産です。料理に使ってください」「わたしは甲斐ではなく隣の長野出身です」などとあいさつしながら、それぞれが司厨長より強奪した品々を渡して広い居間に通されたのだった。
貧しい国で裕福な暮らし
家の中は豪華な家具が並び裕福な暮らしをしているのが想像できた。
(写真屋さんて、そんなに儲かる商売なのか)と驚く松太郎であった。
何故なら、町を歩くと子供達(大抵が靴磨き)が物乞いしたり、「靴を磨かせろ」としつこく群れ(10人余り)をなしてついてきたりと、この国の貧しさがそこかしこに見て取れたからである。
紅白歌合戦に視線がくぎ付け
主人が居間に入ってきて、戸棚に収納しているビデオテープ群(100以上)から、背表紙に『1978年NHK紅白歌合戦』と書かれたテープを取り出し、テープレコーダーに差し込んだ。
いよいよ去年の歌合戦が始まるので、居間のテーブルに坐した松太郎たちは雑談を止め、シーンと静まり返るのであった。
そこへ 日本の食材差し入れに気を良くしたのか、奥さんが皆にコーヒーを持ってきてくれた。
御礼を言いながら、コーヒーを受け取る皆であったが、視線はテレビにくぎ付けであった。
女性歌手を食い入るように見る
女性歌手が出る度に、無言で食い入るように見るのであった。なにせ、1年以上も日本女性を見ていないのであったから。
華やかなショーが進むにつれ、歌手や歌詞に感情移入して涙を落とすもの、口ずさむもの、足でリズムをとるもの、知らない歌が流れると一生懸命覚えようとするものなど、さまざまであった。
松太郎は、森昌子の歌に涙した。桜田淳子もいた。百恵ちゃんは未だ引退しておらず、オオトリで歌っていた。五輪真弓もいた。
なんとかイスタンブールも聞いた。木綿のハンカチーフの女性歌手もいた。
男性歌手はほとんど思い出せないが、北島三郎の変な木こりの唄『与作』を初めて聞いたのもこの時であった。
こんどの正月は家族とともに
あっという間に1978年大晦日の紅白歌合戦が終わった。
誰もコーヒーには手を付けていなかった。テープが終わってから、皆、冷めたコーヒーを飲んだ。
1年ぶりの日本の歌が聞けて皆、満足だった。そして家族を思い、皆、日本に早く帰ろうと思った。こんどの正月は家族とともにNHK紅白歌合戦を見ようと思った。
家族との交信は手紙だけだった
船乗りにとってこの当時、家族、恋人 婚約者との交信は手紙だけであった。本人たちからの手紙(エアーメール)は港、港から固定住所に出し家族や彼女たちに届くのだが、不定期で就航している本船にはなかなかタイミングが合わず送れないことが多々あった。
そんな中、会社が乗組員へ預かり手紙(家族や彼女たちが会社へ送ってきたもの)を確実に送れるのが、パナマ運河やスエズ運河通過時であった。
乗組員は溜まった手紙を一度にまとめて受け取るのが常で10通以上も受け取る禍福者もいた。
手紙を受け取った者は部屋で一人っきりになって読んだ。誰も邪魔しないのが流儀であった。
手紙を何度も読み返す
松太郎もペルーへ向かうパナマ運河通過時に母から手紙を受け取っていた。懐かしい母の手紙は綺麗な文字が並び、優しさにあふれていた。その後、何度も寝る前に読み返していた。
その日、8カ月遅れのNHK紅白歌合戦を見て帰船した松太郎は、「もうすぐ帰る」と母に手紙を書くのであった。