第19話 アル中局長と日本赤軍(Scheveningen)

更新日:2020年2月12日
日本赤軍の息子とハーグで

 「えーっ、局長、日本赤軍の息子にハーグで会うって!」
 「日本赤軍にKというのはいないでしょ!冗談でしょ」
 「俺も別れた女房も、若いころはバリバリの共産党員。息子もその影響で日本赤軍に入ったようだ。息子は、女房の姓Yを名乗っている」
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ラスパルマス出港しオランダへ

 松太郎乗船の冷凍船は、スペイン・カナリヤ諸島のラスパルマスを出港し、オランダのスケベニンゲン港に向かってアフリカ沖を航行していた。
 アル中気味の局長K氏(71歳)が、ラスパルマス出港前、突然、「スケベニンゲンに着いたら、日本赤軍の息子とオランダのハーグ大使館前で会ってくる」と言い出したのである。
 ハーグといえば、1974年に日本赤軍がフランス大使館占拠事件を起こした場所、その日本大使館前で日本赤軍の息子と会うというのである。
 実に大胆、実にちんぷんかんぷん、アル中が言いそうなことでもある。
 とりあえず話を聞いた松太郎、2航士、3機士は他言無用、局長を加えた4人の秘密にした。
 それにしても謎の多い話である。局長(通信長)は「日本赤軍の息子と会う」ということ以外、詳しいことは何も話してくれなかった。

局長の謎

1)局長は、どうやって息子と連絡をとったのか?
2)日本大使館前に息子が出てくるということは、息子は出頭して自首するのか?
3)無線士の局長は、何らかの形で日本赤軍の無線を傍受したのか?
4)局長は元共産党員で、日本赤軍の支援をおこなっていたのか?
5)日本大使館や日本警察にバレたら本船は、臨検を受け全乗組員が事情聴取かも?
 K局長は昼行灯で、日中は部屋から出てくることなく酒を飲んでいるか、又は寝ていることが多い。夜は和文電報の送受信を行うべく徹夜で業務を行い、仕事を終えると酒を親しむという生活を送っている謎の人物であった。
 「日本赤軍の息子に会う」は出港前、22時~23時頃に部屋を訪れ、深夜業務を慰労してあげていた矢先に飛び出した仰天話だったのである。

※当時の通信システム:本船と陸との通信は海岸局を介して行うのが普通であり、海岸局にも無線士が多数おり、彼らが船舶からの電報を受信して海運会社や乗組員の家族へ電報を届け、また、海運会社又は乗組員家族からの電報を船舶に打電していたのである。
 日本国籍船が和文電報を打つ時は、東はチョウシムセン(銚子無線局)、西はナガサキムセン(長崎無線局)を使うのが常であった。
 地球の裏側である西アフリカ沖から和文電報を送・受信するのは至難の業であったが、ローマ字電報や英語電報を嫌う船長が多かった為、局長は耳をすまし、夜中に和文電報を受信し、船長からの和文電報を送信するのであった。
 また、ヨーロッパ航路の日本籍船が英文/ローマ字電報を打つ場合及び陸から英文/ローマ字電報を打電する場合、スケベニンゲン海岸局を使うことが多かったようである。今日ではe-mailで送・受信ができる為、局長(通信長)の乗船も必要がなくなっている。非常に便利な時代になったものである。

 因みに当時の電報は下記のようになる。
       <和文>
 エタスケベニンゲン6ヒ1230ジホユテハタムシー400トンエー50トン
 イロハマルセンチョウ
   (エタとはETA(到着予定時刻)のこと)
<ローマ字>
     KIKANNCHO IKAIYO/NO TAME/BYOIN NI/IKUYOTEI SAIAKUKOTAI
     KOUTAISHA NO/JYUNBI TAMU/IROHA MARUSENCHO
     (10文字で1語とされ、課金されるので、ローマ字は上記のような表記となる)

スケベニンゲンに入港、局長が1人で外出

 本船がスケベニンゲンに入港すると、局長は船長に「1泊して帰る」と告げて1人で出かけて行った。
 オランダ・ハーグ日本大使館前で日本赤軍の息子に会うのを知っているのは、松太郎と3機士、2航士の3人だけである。
 本当に大丈夫なのだろうか。
 3人で気をもんでいたが、翌日午後、局長は何事もなかったように帰ってきた。そして我々に息子と会ってきたことを告げるように微笑むのであった。
 岸壁をずっと見まわしたが、本船を見張っている刑事らしい人物もいないし、警察車両もいなかった。それが判って3人はホッとするのであった。

局長は息子と暮らすことができたのか

 その後下船するまで一緒に酒を飲んでも一切、局長はこの件について話をすることはなかった。事が事だけに3人から問いかけて聞くこともなかった。
 そして、ニューオーリンズ入港前のガルベストン沖で局長、我々3人は下船。下船後、K局長とは連絡を取ることもなく、音信が途絶えたままである。
 彼の息子Yは1986年に警察に自ら出頭し逮捕され、懲役刑に決まったというのを新聞記事で見たが、その後の様子は判っていない。
 1972年のテルアビブ国際空港乱射事件(約100人死亡)に始まり、日航機ハイジャック事件、大使館占拠などの国際テロ事件を起こした日本赤軍は、最高幹部の重信房子が2001年に獄中から解散宣言し壊滅・解散している。
 局長は生きているうちに息子と再会し、一緒に暮らすことができたのだろうかと思いを馳せる松太郎であった。

※カナリア諸島:
 スペイン領で、大航海時代に中南米へのスペイン前線基地になった島々である。
 スペイン語のISLAS CANARIASは「犬の島」という意味。小鳥カナリアの原産地として、この島々は有名である。
 1980年前後、ラスパルマスは日本マグロ漁船の基地となっており、マグロ漁船が多数、カナリア諸島近海で操業していた。
 漁船は基地を出港後、2~3カ月操業してラスパルマス基地に帰ってくるというパターンを繰り返していた。漁師達は基地に帰ってくると各々100~200万円の操業報酬を現金で受け取り、それらを1~2週間で使い切るという生活をしていた。
 それ故、港には現地女性やコロンビア及びパナマから出稼ぎに来た女性達が飲み屋(バー)で待ち構え、金を使わせるのである。彼らは彼女たちの上客になっていた。
 ラスパルマスでは漁師たちが教えた「アナタ、ウソッ!山(やま)」「あなたチョウチョ、ウワキモノ」など変な日本語が広まっていた。また、森進一や沢田研二の歌を歌える女性も数多くいた。
 店に彼女の為にシャンペンを注文するのが礼儀であり、シャンペン注文が男(漁師たち)と彼女達との自由恋愛OKのGOサインでもあった。また、高いシャンペンやブランディーを派手に飲むことで店にお金を落とし、その女性の顔が立つようにするのが漁師たちの流儀であり、その娘の店内地位もあがるというものであった。
 当然、自由恋愛は期間限定が前提であるが、情が移りその行き着く先は、結婚、子供の誕生がある。彼女たちが言うには「日本人との子供は素直で頭が良い。小学校では成績が良いので自慢の子」であった。その為、彼女たちは日本人との子供を積極的に欲しがるのであった。
 岸壁から街に向かう真正面に『ぺぺの店』と日本語で書かれた日本人専用の雑貨店があり、その店では正月用の日本凧やコマ、「七五三」用の子供用着物も売っており、彼女たちはそれらを購入して日本人のように子供たちを祝っていると聞き、心が痛んだのを覚えている。
 何故なら、彼女たちは日本人漁師が黙って帰国したために捨てられたり、高知の山あいや青森の浜通りの田舎町で生活した後、離婚を余儀なくされたりしたシングルマザーが殆どだったからである。

<「船乗り松太郎が行く」とは>
著者は、『船乗りは無冠の外交官』という言葉の響きに感動・感化され、船乗りをやりながら 「日本人として恥ずかしくない行動を」「日本人の良さを微力ながらも外国人に伝えよう」と自分に言い聞かせてきた。彼は乗船時の体験、出会った人々のことを、エピソードごとに書き留めてきた。それはいまでも興味深いものがあり、全21話を週刊で紹介します。

<著者>
野丹人 松太郎(のたり まつたろう)
略歴:海運好況時に大学へ入学し、大不況の1970年代後半に卒業。卒業後、当時は少なかったマンニング会社に就職し23歳から29歳まで様々な商船に乗船した。その後、船舶管理者として勤務し、現在も現役。