第20話 パトカーと別れのあいさつ(Montreal)

更新日:2020年2月18日
カナダのモントリオール港に停泊

 松太郎の乗った船は カナダ・ケベック州の州都モントリオールに停泊していた。
 明朝0900時に五大湖の一つ、オンタリオ湖に向かって出港予定であった。
 松太郎はほろ酔い加減でセントローレンス川の河岸にある塀沿いを歩いていた。1人で街中にある酒場で飲んだ後、タクシーを拾い、本船に帰るはずだった。
しかし、フランス語ばかり話して英語を余り理解しないタクシー運転手に行先を告げたが通じず、あちこち行ったり来たりするのに呆れ果てながらも、やっとセントローレンス河岸に出たので、「もう大丈夫、ここから歩いて帰れる」と判断、厄介なタクシーを降りたのだった。

鉄条網で右手首を切る

 人通りの無い河岸の塀沿いを歩きながら本船煙突を捜すのだが、なかなか見えてこない。仕方なく塀を乗り越えようとよじ登ったが、鉄条網に右手首をひっかけ5~6cmほど深く切ってしまい、血が噴き出してきた。あわてて元の塀の外側に降りて左手で抑え、血を止めようとしたが、止まらない。
 血を滴らせながら歩き、目は河岸に停泊している船舶の煙突を追うのだが、見覚えのある煙突マークは見つからない。
 (どこに本船はいる?川の反対側の河岸を歩いているのかな)
 不安が募っていく。シャツが血だらけになっていく。
 夜も遅いので、河岸の道には誰も歩いていない。たまに船荷を運ぶトラックが通り過ぎるだけであった。

パトカーが停止、本船停泊場所を確認

 後ろから静かに近づいてくる車のヘッドライトがふと目にはいった。フランス語と思われる無線の話声も耳に聞こえる。なんだろうと振り返り、まぶしいヘッドライトを左手で翳すと見えたのはパトカーであった。
 パトカーがゆっくりと松太郎の後ろから、様子を窺いながら近づこうとしていたのである。
 停止したパトカーから出てきたのは 若い白人の警官であった。
 「どうした? その右手の血は 怪我しているのか」
 「大丈夫か?」と、続けて問いかけてきた。
 「塀に登って、自分の船の所在を確かめようとしたら、鉄条網にひっかけて手首を切ってしまった」と、区切り、区切り、たどたどしい英語で説明すると、
 「船の名前は?」
 「A.P.号」と答えると、パトカーの中に居たもう1人の若い警官が、無線で船名を告げ、停泊場所を確認している様子が覗えた。

パトカーで本船まで送られる

 そのフランス語の無線のやり取りは、松太郎には言葉の意味が判らずとも、とてもやさしいものに感じられ、涙がでそうになった。

 5分程やり取りをした後、外の若い警官が突然、「乗れ、船に連れてってやる」
 松太郎に告げ、車の後部ドアを開けるのであった。
 背中を押されパトカーの車内に入ると、運転席にもう1人の若い白人警官が笑顔を返してきた。無線からフランス語が漏れ聞こえる中、彼は英語でこう言った。
 「君の船は対岸に停泊している。これから送って行こう」
 「やっぱり そうか」とつぶやく松太郎。

フランス語と英語を話す警察官

 車内の様子を観察すると、前部席両サイドにショットガンが無造作に差し込んである。
 このショットガンで撃たれたら、5~6メートルは吹っ飛んでしまうだろうなぁと思いながら,ふと気づいた。前部席と後部席との間には何のガードもないことに。
 このまま手を伸ばして、ショットガンを持ったらどうすんだろう……..。
 きっと安全ピンを抜く前に、頭に拳銃で一発くらっちゃうんだろうなぁなどと良からぬ想像をしていると、「君は 中国人?」と聞いてきた。
 「いいえ、私は日本人です」ときっぱりと松太郎。
 「フランス語は判る?」
 「いいえ、日本人は英語を習いますが、フランス語は習いません」
 「そうですか」
 「若いのに君達は英語もフランス語も喋れ、判るのはすごい、立派ですね」
 「カナダ・ケベック州の公務員は普通です」
 「本当?私は大学で第2外国語はフランス語ではなくドイツ語を専攻しました」
 「フランス語を習えばよかったのに」
 「私はフランス人が嫌いです。でもフランス語を話すカナダ人は好きです」
 「なかなか面白いこと言うね」

感謝への返答は、Any time

 この優しい若いカナダ人警官と話しているうちにパトカーは大きな橋を渡り、対岸の川沿いにある塀に沿って何時しか走っていた。

 右手首は彼らがくれたタオルで巻かれていたが、すでに血が止まり、これ以上悪くなることは考えられなかった。それ故、わざわざ病院に行くこともないだろうと松太郎は安堵していた。
 前方になつかしいA.P.号の煙突が見え、やがてその船体が現れ、パトカーが本船舷梯の下に止まった。
 船の上では パトカーが止まったので、当直の者が上甲板を走って右往左往して何かを叫んでいる。
 パトカーのドアをゆっくり開け、松太郎は外に出て、彼らに別れ際、
 「Thanks a lot」と別れのあいさつを言った。
 返ってきた言葉は「Any time!」であった。
 (えっ! Your Welcome、ユア ウェルカムじゃないの???)
 日本じゃ、英語のテストでは 必ず正解は「Your Welcome」でしょ。
 フランス語圏では こういう状況の決まり文句は「いつでも」って返すのかなぁ。
 「Any time !」は「Your Welcome」よりカッチョイイなぁ。
 これからは「サンキュー」と言われたら「エニタイム」と返事しようと誓う松太郎であった。

<「船乗り松太郎が行く」とは>
著者は、『船乗りは無冠の外交官』という言葉の響きに感動・感化され、船乗りをやりながら 「日本人として恥ずかしくない行動を」「日本人の良さを微力ながらも外国人に伝えよう」と自分に言い聞かせてきた。彼は乗船時の体験、出会った人々のことを、エピソードごとに書き留めてきた。それはいまでも興味深いものがあり、全21話を週刊で紹介します。

<著者>
野丹人 松太郎(のたり まつたろう)
略歴:海運好況時に大学へ入学し、大不況の1970年代後半に卒業。卒業後、当時は少なかったマンニング会社に就職し23歳から29歳まで様々な商船に乗船した。その後、船舶管理者として勤務し、現在も現役。