第3話 トレド大学の国際試合 (Cebu Island)

更新日:2019年10月8日
比乗組員は副業で稼ぐ

 “松太郎”は フィリピン セブ島のトレド港沖に居た。
昨日、本船に近寄ってきた艀船に乗って上陸した比国人クルーは日本で買い込んだ 中古白物家電機(テレビ、冷蔵庫、洗濯機)の商談をまとめて来たようで、今朝から業者が来て、比国人クルー居室内に保管していた中古白物家電機各々を点検しながら『何でも鑑定団』よろしく次から次と値踏みし、チョークで買い取り価格を書いていた。
“それにしても何なのだ この夥しい数は!クルー居室内に良くも納まっていたものだ。
(寝るとこ無かったんじゃないの)と彼らのやっていることに半ば呆れ、感心したのだった。
当時の比国人クルーは冬でも T-シャツに粗末なズボン、そして小さなバッグ一つで乗船して来るのが普通で、貧しさがあった。乗船中の給料は現在の4分の1から5分の1ではなかったかと記憶している。
(※ OS=甲板員やWiper=操機員にいたっては月70ドル~80ドルであった)
日本~フィリピン航路は彼らにとって副業をやるドル箱航路であった。何しろ、日本で買った中古白物家電機は 2倍で売れ、5段-10段変速中古自転車や中古モーターバイクはそれ以上の利率で身入りがあり、資金さえあれば 給料1カ月分は軽く稼げたのであった。
(※ 本来、このような乗組員副業は禁止なのだが、当時は止めることも出来ず、黙認せざるを得ないと いうのが実情であった)

トレド大学生と合コン

 金が入り、金銭的余裕ができたのか 比国人クルーを代表して一機士が 「明日は土曜日、昼から訓練を兼ねて救命艇を降ろし、みんなで上陸しましょう。トレド大学に旧知が居るので、大学に行って女子学生と合コンしましょう」と提案して来た。鉄面皮船長に、クルーの総意として申し入れると二つ返事で承諾してくれた。
翌日、1300時過ぎ 一機士以下機関部を中心に約10名で救命艇を降ろし陸に向かった。
救命艇を桟橋に係留し、私一人だけ 港湾局で上陸手続きを済ませた後、上陸した全員でトレド大学へ。大学の野外バスケットコートのそばで10名前後の女子学生がお揃いの鮮やかな柿色のワンピースを着て待っていた。
ワンピースはこの大学の制服なのだろうか?それにしても体の線が見え見えで、出るところは出て、絞るところは思いっきり絞っている。お化粧のせいなのか若い可愛い顔をしていながら、それぞれが大人びた妙な色気を発散している。男女交互に車座になって座り、歓談した。日本人である私が気になるのか、あちこちから視線が飛んでくる。恥ずかしくて何か 落ち着かない。両隣の女子学生が話しかけてくる。
「日本語でこんにちはって何て言うの?」
「歳はいくつですか 独身ですか?」
「東京に住んでいるのですか?」
「大きいですね 身長はいくつ?」
「柔道か相撲をやっていたのですか」
という矢継ぎ早の質問にそれぞれ丁寧に答えてあげ、私は「そのワンピースの色は素敵ですが、どうやって染めるのですか?」「バナナの花、それともバナナの葉っぱ?」と不粋な質問。
「うーんっ 判んない」“そりゃそうだ 聞くほうが悪い”

バスケットで試合

 そんな中、向かい側の女子学生が「バスケットできますか?」と聞いてきた。
「勿論できます。得意なスポーツの一つです」と皆に聞こえる声で返答すると聞き耳を立てながらバスケットに興じていた男子学生達の一人が車座に割り込んできて、「僕らと 試合しません?」 と。
きっと合コンメンバー女子学生の誰かがガールフレンドなのだろう私に対し挑戦的な態度を漂わせている。
       “若いなぁ!  青春まっただ中 だなぁ”
我がクルーも女子学生に良いところを見せたいらしく乗り気の様子。結局やることになった。試合の先発メンバーは 一機士 二機士 Wiper 三機士 松太郎に決まった。
試合が始まった。男子学生達は闘志むき出しでプレーしてくるので、なかなか試合を優勢にすすめることができない。しかし、我がチームも捨てたものではない、二機士が高校時代バスケットをやっていたらしく上手い。彼がポイントを入れる。私にもボールが回ってきた、それっ!ロングシュート! 決まった。また、ボールが来た、ドリブルで切り込み、二機士にパス、二機士が格好良く決めた。やっと試合らしくなってきた時、応援してくれていた女子学生の誰かが叫んだ。
「It's International match game」
試合は20点差で負けた。 試合中に女子学生とクルーがフィリピン料理の子豚の丸焼き、 魚の蒸し焼きなどを買ってきて飲み会の用意をしてくれていた。試合後、試合した男子学生も加わりキャンプファイヤみたいにフィリピン料理を囲み、大いに飲み食いし、試合のプレーを思い出しながら笑顔いっぱいで歓談した。勿論、国際試合の立役者、松太郎は歓談の中心にいた。

<「船乗り松太郎が行く」とは>
著者は、『船乗りは無冠の外交官』という言葉の響きに感動・感化され、船乗りをやりながら 「日本人として恥ずかしくない行動を」「日本人の良さを微力ながらも外国人に伝えよう」と自分に言い聞かせてきた。彼は乗船時の体験、出会った人々のことを、エピソードごとに書き留めてきた。それはいまでも興味深いものがあり、全21話を週刊で紹介します。

<著者>
野丹人 松太郎(のたり まつたろう)
略歴:海運好況時に大学へ入学し、大不況の1970年代後半に卒業。卒業後、当時は少なかったマンニング会社に就職し23歳から29歳まで様々な商船に乗船した。その後、船舶管理者として勤務し、現在も現役。