第4話 人民公社見学、自転車、自転車 そして自転車 (Shanghai)

更新日:2019年10月15日
舷門に紅衛兵

 松太郎乗船の船は文化大革命が終了する直前の中国、上海黄浦港に着岸していた。
 着岸後直ぐ、代理店と共産党員と思しき者及び紅衛兵が乗船してきた。そして、そのまま 紅衛兵はギャングウェイに立直した。着岸中、紅衛兵2名は船が用意する食事(朝食 昼食 夕食 時に夜食)を食べ、用意した船室に寝泊まりしながら交代で見張るのである。何を見はるかと言えば、乗組員を見張るのではなく、出入りする中国人を見張るのである。共産主義国の中国は世界で一番と喧伝している立場上、他国船舶乗組員の衣食住が中国人民より優っていることを気づかれたくないのである。そんな噂が広がっては困るのである。
 そんな訳で 共産党員と思しき者は乗組員全員を集め『毛沢東語録』なるポケットブックを配った。拒否すると連行されるらしいので、皆仕方なく受け取った。そして、乗組員を一室に集め、「ありがたい毛沢東様の御言葉を読んでやるから聞け。共産主義の素晴らしさを習得しろ」と。大変な上から目線で横柄なのである。この者は中国人民にはもっと横柄で猪猛々しいのであろうと思われた。

 当時、毛沢東は自分の失地回復と政敵追放のために若い何番目かの妻、江青ら一党を動かして文化大革命を指導、成功させて大変な権力者となり、中国では誰も逆らえない皇帝のような存在になっていた。共産党員の共産党員による共産党員の為の中華人民共和国という印象だった。

 荷役開始とともに 背にモッコを背負い、お菓子のとんがりコーンのような竹でできた黒いとんがり帽子をかぶったステベ達がアリの行列のごとく一斉に本船にやってきた。そして、あっというまにホールドは彼らで満たされ、真っ黒になってしまった。代理店曰く「これが中華人民共和国得意の人民の海による人海戦術なのだ」そうである。 荷降ろした貨物を積むトラックも酷いもので おそらく軍隊からのお下がりと思われる中古軍用車両であった。これらを目の当たりにして「中国は貧しい」「日本より 30年以上遅れている」と松太郎は思うのであった。

外灯の下で勉強する子供

 その晩、1700時過ぎ、タクシーを呼んで松太郎は街に繰り出した。行先は上海市内のロンドン橋と友誼商店、 そして上海黄浦公園であった。街中に出るまで全く一般車と遭遇することはなく、軍用車が2~3台すれ違っただけであった。街中に出ると広い通りは同じねずみ色の人民服を着た中国人が乗った自転車の川であった。交差点は信号が無く、中央に白い台を置き、それに交通警官が立ち笛を鳴らして交通整理をしていた。笛の合図で人民の流れが切り替ると、自転車 自転車 自転車 が10列ぐらいの隊列で一斉に動き出した。次から次に自転車が流れる様は異様で、例えようのないものであった。おそらく1時間に5千台以上が交差点を行き来していたものと思われた。松太郎の乗った車高の高いイギリス式タクシーは人民の自転車に飲み込まれながらゆっくり進んだ。この時、車は私たちのタクシーだけであった。 黄浦公園では若いカップルも見られたが、全て鼠色の人民服を着ており、オシャレは禁止、化粧も無く、美人らしい女性も、色気のある女性もいなかった。照明も余りない為、景色は暗く、人々に笑顔はなかった。そして、公衆便所は汚れていて臭く、非常に汚かった。使える代物ではなかった。
 2000時頃 帰船する途上、珍しく外灯がポツンポツンと立っている通りがあった。その外灯の下に小さな机を置き本を読んで勉強している子供が一人いた。松太郎はタクシーの車中から驚きをもって見た。その時、「月光、蛍雪の代わりに外灯かぁ。たいした子供がいるものだ。さすが中国!」と感心したのだった。 が、すぐに「外国人に見せる為、共産党員が演出した見世物」に違いないと思い返し、おれは騙されないぞと思った。

人民公社を見学

 翌々日、代理店の計らいで 比国クルーとともに 人民公社見学に行った。中学で習った人民公社を直接 見学できるのに松太郎は興奮していた。
 人民公社見学のガイドは男性でガチガチの共産党員で代理店が英語に通訳してくれた。農民が使う農機具、田んぼなどを見学したが、全く機械化されていない。
 全て人民の海・人海戦術で乗り切るのだそうです。田んぼ見学の時、肥え籠を担ぎ、談笑しながら歩く若い女性達とすれ違った。若いのに臭い肥え(糞尿)籠を担ぐとは 感心、感心、たいした女性達と思ったのだった。
(しかし、これも 共産党の演出だと思った)。
 その後、医者の数が足りないというので人民公社の若い少年が薬草を勉強し薬草を集めて漢方薬を作り人民の為に医者の役割を担っている云々の説明があり少年も紹介してもらった。何でも『裸足の少年医』と言われ多くの人民公社で実施されているとのこと。(フム フム フーム 感心だなぁ)(また演出にだまされるところだった。)
 最後に農民の老婆が住む母屋に案内され、土間に宝物のように置いてある自転車の傍、ベッドに座って老婆は涙を浮かべて、こう言い放った。
 「開放前はこのようなりっぱな自転車は手にすることはなかったが、解放後は自転車が持てました。毛沢東様と中国共産党に感謝、感謝です。今はとっても幸せです」
 さすがにこの時は やりすぎの やらせ演出と気づいたのを覚えています。
 おばあちゃんは女優さんかも?女優さん貴方は騙されていますよ。自転車より便利なものがこの世にありますよ。もっと幸せになってもいいはずですよ!と教えてやりたかった。

まだ貧しかった中国

 35年前の貧しい中国、そして中国共産党の虚虚実実の実態。その様は張子の虎というしかありませんでした。どこまでも見せかけの実態を強調し、本当の姿を見せようとしない誤魔化しの体質。それはますます酷くなって今に継続しているようです。人民とかけ離れた中国共産党、そして共産党の持ち物でその走狗と化した人民解放軍&紅衛兵。隣の大国は困ったものです。
 日本もいろいろあるけれども中国よりはマシ。中国人ではなく、「日本人に生まれてきてよかった」と松太郎は思うのであった。
<追記>
 2017年に兄と中国観光ツアーで上海に行った時、観光ツアーのガイドをしていた中国人のホウ(彭)さんにこの話をしたら、
「違います、共産党のやらせではありません。当時 上海では電気代を節約する為、日が暮れるとすぐ電灯を消す家々がほとんどだったんです。だから、勉強好きな子供の為、母親は道路の外灯の下に小机を置き、子供に勉強させたのだと思います。実は私も外灯の下で勉強した経験があります。一生懸命勉強して大学に行き、在学中に日本語を学ぶ為、中国の国費奨学生となって日本に留学したんです。日本に留学してびっくりしたのは部屋の外に洗面台とトイレがある4畳半のアパートでした。当然 裕福だろうと思っていた日本の学生たちがどうしてこんなところに住んで勉強するのか不思議でした」
と返事がかえってきた。

 共産党が支配する中、貧しい当時の中国人たちは各々知恵を絞っていたのだ。
 やはり、疑うことなく「月光、蛍雪の代わりに外灯かぁ。たいした子供がいるものだ。さすが中国!」と 感心すべきだった。
 外灯の下で勉強した幾多の子供たちが今の中国(共産党ではない!)の縁の下の力持ちとなって、各々支えているのかもしれない。

<「船乗り松太郎が行く」とは>
著者は、『船乗りは無冠の外交官』という言葉の響きに感動・感化され、船乗りをやりながら 「日本人として恥ずかしくない行動を」「日本人の良さを微力ながらも外国人に伝えよう」と自分に言い聞かせてきた。彼は乗船時の体験、出会った人々のことを、エピソードごとに書き留めてきた。それはいまでも興味深いものがあり、全21話を週刊で紹介します。

<著者>
野丹人 松太郎(のたり まつたろう)
略歴:海運好況時に大学へ入学し、大不況の1970年代後半に卒業。卒業後、当時は少なかったマンニング会社に就職し23歳から29歳まで様々な商船に乗船した。その後、船舶管理者として勤務し、現在も現役。