第7話 蟹工船とアルバイト学生(Dutch Harbor)

更新日:2019年11月5日
蟹工船に接舷しタラバガニ積み込み

 松太郎の乗った船は、アリューシャン列島ダッチハーバー沖に停泊している大きな蟹工船に接舷していた。これから正月用タラバガ二を積み込んで、12月中に日本に帰る予定であった。
 タラバガニ積み荷役は、本船乗組員と蟹工船に乗船・寄宿している米国アラスカ州&ワシントン州にある大学のアルバイト学生、及び季節労働者として乗船・寄宿しているメキシコ人とでチームを構成して12時間2直交代で行うことになっていた。
 本船ウィンチで蟹工船から送られてくる一箱30~40kgの貨物を、構成チームの人間が協力して一箱一箱、本船冷凍貨物艙に積み上げていくのである。
 積み切りまで2週間を要する大変な作業であった。

蟹工船にはアルバイト女学生が

 本船に積荷作業のためにやってくる学生は男子学生のみだが、蟹工船をじっと観察していると女学生もいた。
 女学生たちは蟹工船内で働いており、漁船から積み込まれた後、蒸気で蒸され急冷されたタラバガニをビニールで包み箱入れする作業を行っているらしい。作業慣れしたおばさんたちも大勢いるのだが、松太郎たち乗組員には若いアルバイト女学生しか見えず、気になって気になって仕方がないのであった。
 12時間の積荷作業を終えて上甲板に出て、隣の蟹工船を覗くのがいつしか習慣になり、そしてその日、女学生を見かけただけで幸せな気持ちになるのであった。
 女学生にそれぞれあだ名をつけ、Aが良い、Cが良い、いいやSが良いなどと言って乗組員達で噂し、いつか憧れのアルバイト女学生と話をしてみたいと皆が望むようになっていた。

合コンのチャンス

 チャンスは思いがけなくやって来た。
 積荷作業にやってくるアルバイト学生のJが「内緒でウィスキーを分けてくれないか。蟹工船では禁酒になっているので」
 松太郎は一計を案じ「よし、分けてやろう。その代り女学生のあだ名、A、C、Sも呼んでくれ」「隠れてこっそり一緒に飲みながら、話をしようよ」「女子大生が呼べないならウィスキーはダメだ」と返事。
 女学生の姿・様子を説明したが、特定ができない。
 結局、作業後上甲板からJと一緒に蟹工船を見ながら、あの子、あの娘、あの娘と指定した。
 話が出てから、3日経っていた。明日はいよいよ決行の日である。サントリーの“だるま”を用意した。

午前0時から女学生3人と

 決行の日の積荷作業中に同チームのメキシコ人Aが「俺らにもウィスキーを分けてくれ。わけてくれなかったらバラす」と脅してきた。
 このやろう、チリソースぶっかけたろか!と思ったが、チームの乗組員がせっかく憧れの娘に逢え話ができる段取りになっているのに、ウィスキー1本を惜しんでぶち壊すこともないかと思い直し、彼にも“ダルマ”を分けてやることにした。
 午前0時、荷役作業が終わり、作業着の内に“ダルマ”を隠し、彼らのキャビンに向かった。キャビンのドアをJが開けると、そこにはあの憧れの女学生が3人もいるではないか。
 きゃほー やったーァ!
 シー シー。彼女たちが人指し指を唇に当てて静かにしましょとのポーズ。
 その仕草も何かか~わいい。プリティ、プリティ。
 アメリカン女学生は、われわれへの警戒心もなく明るいなァ。深夜なのによく来てくれたなァ。“だるま”さんありがとう。等々、テンションは上がりっぱなしであった。
 Jの計らいによる飲み会は、貴重な“ダルマ”は飲まず、船から持ち込んだ内緒の缶ビールでやった。深夜なので小一時間ほどで飲み会はお開きとなったが、我々3人は逢えただけで感激し思いを遂げた状態だった。
 小一時間、何を話したのか全く覚えていなかった。帰船後、眠りに着こうとしたが興奮して寝付けなかった。

合コンがばれ、女学生は下船

 翌日の0600時、積荷作業にJ達がやって来た。昨日のお礼を言うと怪訝な顔で言葉を遮った。
 「どうしたんだ」
 「実は ばれちゃったんだ」「それで A、C、Sは事情聴取を受けて下船させられて、ダッチハーバーに上陸。その後ワシントン州に帰されることになった」
 「エーッ、そんなばかな。もう蟹工船見ても彼女らは見られないの?」
 「俺は 積荷作業員の補充ができないので、この船の積荷が終わったら下船させられワシントン州に帰ることになっている」
 「そんなに厳しいとは知らなかった。申し訳ない、ほんとに申し訳ない」

1週間後にカニ積み込み終了

 それから1週間後、タラバガ二積みは満載となり完了。アルバイト学生Jも下船しワシントン州に帰って行った。メキシコ人に分けてやった“ダルマ”はバレなかったらしく、彼らに処分はなかった。
 メキシコ人たちは日本製腕時計(セイコー&シチズン)を非常に欲しがり、積荷完了の際、自分たちが蟹工船からボーナスとして受け取る予定のタラバガニ1箱と物々交換しようと乗組員の誰彼となく持ちかけてきていた。
 日本でのタラバガニの値段を思えば。悪い取引ではない。船の乗組員達は次々と腕時計を手放し、タラバガニを手に入れ、本船糧食庫を一杯にしていた。
 しかし、チクッたのはチリソース好きのメキシカン野郎だとずっと思い続け、Jの件が引っ掛かっている松太郎は 自分のシチズン腕時計(ものが良いので彼らにずっと狙われていた代物)を最後まで手放さなかったのであった。
仲積み手当:
冷凍船では蟹工船(または漁業母船)などから洋上で冷凍貨物を受け取り、積荷することが良くあった。その際、通常荷役とは違い、ステベ(港湾労働者)がいない為、本船乗組員が荷役・荷積みを行うのが常であった。
船長及び司厨長を除く本船クルーを2チームに分け、ウィンチを操る者、上甲板でウィンチ操縦者に指示をおくる者、検数をする者(ターリー)、艙内に入り、ステベのごとく荷積みを行う者である。
仕事内容から、殆どのケースで機関部乗組員は艙内に入り荷積みを行うことが多かった。荷役作業は6時間交代でやるのが普通であった。
甲板部は力仕事がない軽作業が多かったので、手当の配分で良く揉め、甲板部、機関部が仲違いすることもしばしばあった。それでも、手当支給は船長以下、全員均等配分とするのが常識であった。

<「船乗り松太郎が行く」とは>
著者は、『船乗りは無冠の外交官』という言葉の響きに感動・感化され、船乗りをやりながら 「日本人として恥ずかしくない行動を」「日本人の良さを微力ながらも外国人に伝えよう」と自分に言い聞かせてきた。彼は乗船時の体験、出会った人々のことを、エピソードごとに書き留めてきた。それはいまでも興味深いものがあり、全21話を週刊で紹介します。

<著者>
野丹人 松太郎(のたり まつたろう)
略歴:海運好況時に大学へ入学し、大不況の1970年代後半に卒業。卒業後、当時は少なかったマンニング会社に就職し23歳から29歳まで様々な商船に乗船した。その後、船舶管理者として勤務し、現在も現役。