第8話 ビアフラ飢饉、負け組酋長の息子 (Port Harcourt)

更新日:2019年11月12日
兵士が軍手、日用品を持ち去る

 松太郎は、乗組員が全員日本人の冷凍船でアフリカのナイジェリアに来ていた。 
 昨日の入港着岸時、税関検査と称して兵隊数名(銃携帯)が来船、なんだかんだと難癖を付け、軍手や日用品を持ち去って行った。
 あまりの理不尽な行動に松太郎は兵隊をトラックまで追いかけ、取り戻そうと押し問答、興奮した兵隊が安全ピンを外して機関銃を向け、今にも撃つ構え、万事休す。
 (母ちゃんゴメン…。軍手1ダースで命を取られちゃう)と言葉が頭を過ぎった。
 そこへ本船船長が血相変えて来て兵隊を宥め「いいんだ、いいんだ。セコンドエンジニア、やめろ!やめろーっ」と言いながら、駆け寄り救ってくれた。  

売っている野菜が国の貧しさを

 昼飯を食べ、厨房にいる司厨長に「ごちそうさま」と部屋に帰ろうとすると、司厨長が「セコンドエンジニア、野菜が無いので昼から一緒に野菜買いに付き合って欲しい」
 機関長の許可を取ってタクシーを呼び、タクシー運転手に野菜を売っているところへ行くよう伝え、買いに出かけた。
 予想はしていたが、着いたところは一本道の路上に掘っ立て小屋風の八百屋が7軒並んでいた。虫食いのキャベツを売っていた。
 司厨長は虫食いが気になって仕方がないようで「他へ行こう」。「この国にスーパーマーケットなんかある訳がない、ここしかない。虫が食うほど美味しい野菜だと思って買うしかない」とアドバイスし7軒の八百屋にあったキャベツを全て(10個)買うことにした。
 キャベツ以外は傷みがひどく食える代物ではなかった。良く売り物として並べているものだ、とこの国の貧困さを思い何故か悲しくなった。
 司厨長(長崎出身、56歳)はかつて、上海に寄港した時、友誼商店で買う品物と一緒にパスポートを提示したところ、何故か売り子達がパスポートを指差さして笑い出したらしい。
 帰船して私に「何故だ」と聞くので、漢字名を見ながら、苗字が中国の淫語で女性の??を意味するのかもしれない。そこに住むとなるから、笑ったのだろうと推測して教えたら、「親にもらった俺の名前を….、」とその場で絶句、悔しそうに涙を流したのであった。

負け組酋長の息子登場

 昼飯を食べ、ギャングウェイから船外の様子を見ると、雇ったばかりのガードマン(弓矢と蛮刀で武装)とステベがやり合っていた。
 箱から漏れた冷凍サバをステベが持ち去ろうとした為、ガードマンが取り返そうとしているのであった。
 そんな喧騒の中、本を読んでいる若いステベがいた。近づいて本の表紙をみると『西アフリカの為の数学』とある。
 昼休みに勉強しているのか、学生か?感心な奴。
 興味を持ったので「何を勉強しているのかい」と声をかけると「数学の分数計算」。模範解答を見ながら勉強しているらしい。 
 「学生かい」と尋ねれば、「酋長だった父が死んだので働きながら勉強している、貧しいからね」と綺麗なつぶらな眼で答えて来た。
 「どうして酋長までした立派な父は死んだの?」と聞けば、ビアフラ紛争で負けて死んだという。「ええーッ あのビアフラ飢饉を招いた紛争で死んだの?」 
 「うん…,」

昼休みに数学を教える

 私は思い出した。中学校の生徒会をやっていた時、担当の先生から教えられて、全校生徒に呼びかけビアフラ飢饉への募金集めに奔走したことを。 
 そして生徒を代表して集めた募金を基金に送ったことを。
 ひょっとしてこの若い黒人はあの基金で飢えから救われたのかも。とこの出会いに感動してしまった。
 数学の分数計算問題が苦手な様子で、鉛筆でノートに計算過程を教え答えを出してやったら、模範解答と照らし合わせて正解であることを確認し、これも、これもと2-3問続けて聞いて来たので教えてやった。するとつぶらな目が嬉しそうであった。そして、「明日も教えて欲しい」と。
 私も「ビアフラ飢饉の子」という思い込みもあり、「よし明日から昼休みに私の部屋で教えよう」と約束した。
 次の日から1週間、毎日昼休みに彼は私の部屋に来て1時間数学を勉強した。分数計算、2乗根の求め方、微分・積分計算などであった。

偉くなっているのでは

 本船出港の日、出港前のFO(燃料)タンク測深を行っていたら、一航士が作業中の私のところへ「あの学生とカメラを持った写真屋さんが来ている」
 「セコンドエンジニア、記念写真を撮りたいと言っているから、一緒にツーショット撮らせてやれ」。照れもあり、私は「今、仕事中だからそんな暇はない」と一航士に答え、そう伝えてくれとたのんだ。 
 そのまま、作業を続けていると、一航士が彼と写真屋さんを伴って現れ、「かわいそうなことをするな、泣いているぞ!」  
 しまった! 
 私は彼のつぶらな眼からこぼれ落ちる涙を拭いてやりながら、彼とのツーショットを写真屋さんに撮らせるのであった。// カシャッ。カシャッ //
 あれから34年、『あの子はきっとナイジェリアで偉くなっている』と信じている松太郎である。

<「船乗り松太郎が行く」とは>
著者は、『船乗りは無冠の外交官』という言葉の響きに感動・感化され、船乗りをやりながら 「日本人として恥ずかしくない行動を」「日本人の良さを微力ながらも外国人に伝えよう」と自分に言い聞かせてきた。彼は乗船時の体験、出会った人々のことを、エピソードごとに書き留めてきた。それはいまでも興味深いものがあり、全21話を週刊で紹介します。

<著者>
野丹人 松太郎(のたり まつたろう)
略歴:海運好況時に大学へ入学し、大不況の1970年代後半に卒業。卒業後、当時は少なかったマンニング会社に就職し23歳から29歳まで様々な商船に乗船した。その後、船舶管理者として勤務し、現在も現役。