好きな言葉は「挑戦あるのみ」!!
ミレニアムに社長に就任

<<連載第306回>>
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2009年12月14日掲載

井本商運株式会社
代表取締役社長
井本隆之氏

―― コンテナ船の模型がありましたが、あれは新船型ですか?

井本 ハッチレス型のフィーダーコンテナ船です。昨年就航したんですよ。確かに普通のフィーダーコンテナ船とは見た目が随分違いますね。うちは「こんな船を作ってみたい」という発想を大切にし、独自の船を作っています。ハッチレス型は「低コストで一番稼げる船型は何か」という発想に立って建造した船です。

―― ハッチレスの発想はかなり以前から?

井本 いえ。過去数年で船価も燃油価格も高くなり、冷凍貨物や危険物が出てきたりしたことで内航フィーダーコンテナ船の新造整備にあたってはいろいろ考える必要が出てきました。その中で出てきたアイデアです。

―― 船型開発に力を入れられているんですか?

井本 そうですね。うちは内航フィーダー輸送が主な業務ですから、ただ船型を大きくして積める量を増やせばいいという考えでは船を作っていません。ハッチレス型のフィーダーコンテナ船は日本で初めて作ったもので、特許も出願しています。常に時代をとらえた船型開発を怠らない姿勢を継続していこうと思っています。

―― なるほど~。ところで井本商運の前はシステム関係の会社に勤められていたとか。

井本 そうです。父が前の社長なのですが、もともと父とは違う道に行きたいと考えていたんですよ。大学を中退してコンピューターの専門学校に通っていたこともあり、その後システム系の会社に就職しました。

―― システム系の会社ではどのような仕事をされていたんですか?

井本 入ってすぐに勉強のため営業を担当させられました。今では懐かしい初期のワープロとかを売っていましたよ。専門学校を出て1年半はその会社にいました。ただ、その後に予期しないことが待っていたんですね…。

―― とおっしゃいますと。

井本 実はその会社のシステムを井本商運が買うことになったのですが、その裏には私が井本に入社し、そのシステムを担当するという密約があったんですね。父にまんまとはめられましたね…。1988年のことです。

―― やっぱり後を継いでほしかったんですね。社長になられたのはいつですか?

井本 2001年でした。システム関係だけやって社長になったわけではないですよ。営業も担当しまして、東京営業所開設の際には3年間くらい赴任しました。

―― 2001年というとミレニアムの年ですね。

井本 実は父が社長になったのが42歳だったんですね。それで、息子の私にも42歳で社長を次いでほしいという思いがあったようです。それがちょうどミレニアムの年と重なったんです。ただ、社長になった年は半期で1億円くらいの赤字を出した最悪の年だったんですよ。父には「おまえが社長になったとたんに悪くなった」って言われたんですけど、前社長時代の負の遺産を引き継いでいただけなんですよね(笑)。

―― いきなりご苦労されたんですね。

井本 まだ社長とはいえ自分の思い通りにやらせてもらえず、徹底して社長業とはどういうものかを突き詰めましたよ。で、社長になってから半年くらいで父に社業に口出しするのやめてくれと交渉しました。そしたらわかってくれたので自分の色を出していきました。

―― 具体的には?

井本 当時は499総トン型で70~120個積みのコンテナ船しかありませんでした。父は大型にしたら競争力が落ちると言いましたが、私の一存で踏み切りました。749総トン型で240個積みのコンテナ船を8隻整備しましたよ。この749総トン型で240個積みの内航フィーダーコンテナ船は国内でわれわれ以外には2隻しか存在しない数少ない船型です。今はこのコンテナ船が会社を支えてくれています。

―― 社内の体制などは?

井本 父の時代に役員だった人たちには少しずつ退任してもらいました。一方で新しい社内組織作りや社員さんの福利厚生には気を配るようにしました。ただ、一番分からなかったのは経理財務ですね。担当者には小遣い帳のようにして収支報告をしてくれと言いました。財務関係はキャッシュフローとか小難しい言葉を使いすぎですね。簡単にしたらすぐにどこをどう改善すればいいのか見えてきましたよ。

―― 社長としての経験も踏まえて、お好きな言葉は?

井本 「挑戦あるのみ」ですかね。石橋を叩いて渡るのも大事ですが、それでは前に進むスピードが遅い。人間は常に右に行くか左に行くかの判断を求められているんです。会社も挑戦を止めたらその時点で終わりだと思います。新しいことを始めるのは簡単ではありません。ですが、そこから逃げたら終わりですから。このインタビューも嫌なんですが、こうやって受けていますし(笑)。あとは、ある人が言っていたことなんですが、問題のハードルが自分に比べて低いと簡単に向こうの世界が見えますね。ですけど、高ければ向こうが見えない。見えるようにするには自分で見えるようにするための努力が必要になる。この言葉を常に頭に入れて生活していますよ。

―― なるほど~。社長になられて感じることはありますか?

井本 自分が大きくならないと会える人も限られるということですかね。今は社長という立場にありますから、いろいろな人と会うことができます。われわれは内航フィーダーではトップクラスのシェアを持っています。そういう立場になるには会社として常に挑戦しなければだめなんです。

―― 外航に出られたりといった考えはないですか?

井本 挑戦といっても事業の多角化は現在のところ考えていません。これからも内航海運のコンテナ輸送という本業に特化した事業展開を行っていくつもりです。浮気をするつもりはありません。これは他のことにも言えることですが(笑)。

―― ところで神戸生まれの神戸育ちですか?

井本 いえ。父の仕事の関係で転勤が多かったので、中学までは転校の繰り返しでした。

―― どのあたりに行かれたんですか?

井本 広島、和歌山など日本各地を転々としました。方言がきついところばかりなので、次の場所で必ずいじめられました(笑)。父が神戸の海運会社で落ち着いてくれたときにはやっとかと思いましたよ。

―― 震災の際は大変な思いをされたとか。

井本 うちは神戸がベースの会社ですからね。やはり震災のときは大変でしたね。地震が起きた1月17日にわれわれのコンテナ船は神戸沖に何隻か航行していたのですが、神戸に入港できず航路を変更したりとかしていろいろ大変でした。ただ、1月24日には第一船を六甲アイランドにつけることができました。

―― 指示はどうやって出されたんですか。

井本 家は大変な状況になっていたんですが、幸い車が動く状況だったのでそれに乗ってとにかく出社しました。ちょうど東京事務所の2度目のオープンが翌日の18日に控えていましたから、東京に社員も一人いたんですね。それで私が東京に指示を出し、東京が窓口になってお客さんとなんとか連絡を取っていました。実はこれには裏話がありまして、本来であれば震災当日の17日にオープンの予定だったんですが、暦が仏滅だったので縁起が悪いと言うことでお客さんには18日とご連絡させていただいていたんです。ただ、事務所は17日の段階でもう完全に動ける状況になっていたんですね。その日に震災というのは何とも不思議な運命だなと思いましたよ。

―― ご自宅はどんな状況だったんですか。

井本 実は全焼してしまったんです。当日自宅に戻ったらもう家に火が迫っていまして。とにかく燃えたら二度と手に入らないビデオや写真、さらに結婚指輪とかを持ち出しました。焼け出されたような状況で、夜を迎えたんですが寝る場所がないのに愕然としましたね。いろんな避難所をさまよいましたよ。

―― 震災の教訓は?

井本 今でも言っているんですが、コンテナは救難物資が運べて倉庫にもなり、さらにそこに住むこともできる、災害時には本当に活用できます。その意味でも内航コンテナ輸送網の充実はとても重要だと思います。

―― 趣味は?

井本 月並みですがゴルフですね。月2~3回です。兵庫県はゴルフ場がとにかく多いですから、すぐに行くことができて便利ですよ。

―― 健康法は。

井本 9月からウォーキングを始めました。週4~5回は出社の前に歩いています。だいぶおなかがへこんできましたよ。ゴルフのときもできるだけカートに乗らないようにしています。

―― 今の関心事は?

井本 環境問題ですね。北極や南極の氷が解ける映像とかがよく流れますが、そんな状態を子孫に残していいのかと。そのためにわれわれが今やるべきことは何かと常に考えていますよ。内航海運業界が果たしていくべき役割もとても大きいと思っています。

―― 最近感動したことは?

井本 政権交代ですね。今まで選挙のようなできレースではないなと思いましたよ。昔は政治にまったく興味がありませんでしたが、今はかなり仕事に関係してくるので興味を持っています。内航海運へのモーダルシフトの関係などで国交省の私的勉強会に呼ばれることもありますしね。

 

 

【プロフィール】(いもと たかゆき)
1960年2月17日神戸市生まれ。1981年3月神戸電子専門学校卒、システム系の会社を経て1982年10月井本商運入社。1990年取締役、93年常務取締役、95年代表取締役専務、2001年6月代表取締役社長に就任、現在に至る。

井本商運株式会社HP: http://www.imotoline.co.jp/