dbg
言葉や文化の違いも乗り越えて、
海外への販路を切り拓く
< 第498回>2021年03月31日掲載 
 スペロセイキ株式会社
代表取締役社長 橋本 圭史郎 氏

*部分にカーソルを合わせますと画像をご覧いただけます

――スペロセイキ株式会社のご紹介をお願いいたします。
 商社で営業マンをしていた先代社長が1973年、産業用バルブメーカーとして創業した会社です。その後、ばらセメントや石炭灰等の粉体輸送を手掛け、専用運搬船の荷役設備の設計・製造に事業領域を広げており、現在では売上の7割以上を荷役設備関連が占めております。国内では、ほとんど全てのセメント会社様に、海外では韓国やインドネシア、台湾や欧州のお客様ともお取引をさせて頂いており、セメント専用運搬船の荷役設備の納入実績は、国内外で100隻以上を数えております。
 この数年は国内各社でリプレース船の建造需要があるため、大変ありがたいことにこの数年は堅調に売上が推移して参りました。
――セメント船における荷役設備の価値は非常に大きいですし、セメント船の「肝」部分の製造を担われているのですね。
 当社としては、荷役設備の性能を満たすことはもちろんですが、荷役中にトラブルが発生した場合、船主様、その関係者様にとっても損失が発生する事態になりかねず、トラブルのないシステムでなければなりませんし、乗組員様にとっても満足できる使い勝手の良いシステムでなければならないというプレッシャーを感じながら納入させて頂いております。また、船舶は寿命も長く、使用する年数も長い為、メンテナンスコストを考慮した荷役設備であることも重要ですし、万が一、トラブルが発生しても技術者が確実に対応できる体制を日頃から整えております。
――これまでのご経歴についてお聞かせください。
 大学卒業後、4、5年ほど、ゼネコンで会計を担当し、主に債権回収の業務に当たっておりました。結婚をきっかけに、義理の父が興した当社に入社し、営業部で勉強させてもらいました。入社当時、先代社長がすでに高齢でしたので、出来るだけ早く後継者に継承したいという先代の想いがありました。私もそれに応えるために先代が経験したあらゆる事を聞き、社長を継ぐ上で必要な考え方等、様々な事を教えてもらい、入社して7年後に代表取締役に就任し、現在に至っております。
――ゼネコンさんと言えばセメントの最終消費者であるお客様側ですし、債権回収を担当されていたお立場からすると、それまでとは真逆のポジションに移られたのですね。
 そうですね、メーカーで仕事をするのは初めてだった上に畑違いで、最初は本当に大変でした。ただ私自身が凝り性なこともあって、いざやってみると、どんどん仕事にのめり込んでいき、2006年頃からは海外営業も始めました。先代社長時代の1985年、韓国でセメント船が建造されることになり、当社が荷役設備一式を海外向けに納入させて頂いた初案件となったのですが、私としては韓国以外にも積極的に海外展開を推し進めたい一心だったのです。
 お金が無駄になってしまうかもしれないけれど、とにかく海外に売り込みたいと先代社長に懇願し、単身でアジアからインド、中東やヨーロッパなど世界各地の営業先を回りました。今思えば非効率だったかもしれませんが、その当時の営業が実を結び、2010年にはインドネシア、続いて2013年には*台湾でお仕事をいただけることになりました。
 言葉や文化の違いのある国でお仕事をさせていただく中で、私自身も成長するきっかけとなりました。
――扱っていらっしゃる製品がニッチで特殊でもあり、様々な技術的解決を提案できる、スペロセイキさんの営業ならではのご経験ですね。文系のご出身ということで、技術者のお客様と会話するうえで、ご自身で心掛けられたことはありますか。
 入口となる営業段階では、当然、自社製品を売り込むのですが、お客様からヒントをいただく事が多く、お客様のご要望を伺ううちに、新製品の開発に繋がることが多くあります。私共は、製品を製造し、納入させて頂いておりますが、実際に使われるのはお客様ですので、その中でご意見、ご要望というのは非常に重要であり、営業は、それを社内に持ち帰り、技術者と共に製品に展開していくという部分で、いろんなアンテナを張ってお客様の声に耳を傾けるということを心掛けております。
 お客様に教わることが非常に多く、いつも大変勉強になっております。
――お客様からいただいたヒントを製品化する上で、技術的に難しいものなどはありますか。
 当社の荷役設備のシステムには様々なバリエーションがありますが、そのバリエーションひとつひとつが、最初は難しいと思うものばかりでした。
 そう感じる主な要因は、社内で実際に造ったことがないシステムだからです。
 造ったことがないものは、失敗をする想像をしてしまいがちです。
 ですから、アイデアが浮かんだら、実際に造ってみて、実験を繰り返しながら必要なデータ収集を行い、製品化しております。
 机上の理論と実際に造ったもので比較検証し、積み上げていく作業を行いながら、リスクを最小限にしていくことで、社内の技術者も設計思想の妥当性を確認でき、安心して設計ができますし、営業も自信を持って売り込むことができます。
 もちろん、失敗もありますが、長い目で見ると、それもノウハウとなります。
 実際に、新製品を開発し、現在は国内外の海運会社様、セメント会社様に納入させていただいておりますが、お客様からいただいたご要望を具体化し、積み重ね努力することで、お客様との信頼関係を築くことができ、会社も発展していくのだと信じております。
――世界各地から商談をまとめてくる社長、そしてそれに応える技術者がいて、また、そのような技術者を育てる社風があるのですね。
 先代社長は、シベリア抑留を経験した人間でしたので、精神的にも肉体的にも非常にタフで、創業から37年間経営者として実績を積んできた人でした。
 一方で、私は入社して18年ほど経ちますが、先に述べたとおり、入社して7年で後を継ぎましたので、経営者としては11年しか経っていない若輩者です。また、先代は、私が会社を継いだ2年目に病で亡くなりました。
 それ故に、社員一人一人の支えがなければ、これまでの発展はなかったと思っております。
 当社には、創業時からいる社員もおりますし、中堅社員、新人社員と年齢も経験も様々な社員がおりますが、社員は、大変大事な存在です。
 責任感の強い社員ばかりですので、会社を支えてくれるその社員達が、社風を作り上げてきたと言えるかもしれません。
――社員の方々に恵まれたのですね。従業員は総勢何名ほどいらっしゃるのでしょうか。
 約70名ほどですが、そのうちベトナム人研修生が10名ほどおります。
――ベトナムというとセメント需要が伸びていそうなイメージもありますが、現地で関連会社を設立されたりは?
 実は2017年にベトナムに仕入先として工場を構えました。きっかけは、ベトナム人研修生達の研修期間が終了して帰国後、全く別の仕事をするのも何かもったいないと感じたことです。現地で仕入先を探すついでに、研修中は一時帰国が難しい研修生達も、社員旅行の行先をベトナムにすれば家族に顔を見せることができるのではと考え、ベトナム・ホーチミンへの社員旅行を企画しました。研修生の両親を招いた夕食の席で、ベトナムに会社をつくるとしたら、働きたいか尋ねてみると拍手が起こり、背中を押される形で現地に工場を設立する運びとなりました。過去に当社で研修していた研修生達が、今でも故郷にある当社の工場で働いてくれています。日本で組立てる部品の現地加工をやってもらっております。
――素晴らしいお話ですね。続いて、印象に残っているお仕事についてお聞かせ下さい。
 インドネシアの新造船案件は、冒頭でお話しした通り、韓国以外で初めて海外向けに仕事を受注できた喜びが大きく、印象に残っております。ところが、いざ始めてみると、バタム島にある造船所は当時、原っぱのようなヤードで、造船工程でトラブルが続き本当に大変でした。一番深刻だったのは、竣工後に貨物艙に水が入ったために、貨物艙内のセメントが丸ごと固まってしまったというものでした。現地に駆けつけたところ、当社の荷役設備の問題ではなく、バラストタンクに穴が開いていて、海水が貨物艙に入ったというものでした。その船はシリーズで2隻建造したのですが、シリーズ船最終船竣工後の会食の場で、現地関係者の皆さんの笑顔が本当に素晴らしかったのが印象的で、様々なトラブルには見舞われたものの、やって良かったと感じた瞬間でした。
――ご趣味や休日の過ごし方について教えてください。
 音楽が好きです。新型コロナの災禍で外出しづらいこともあり、エレキギターの演奏には時間を忘れ、週末、気付くと8時間ほど楽器に触れている日もあるくらいです。今は難しい状況ですが、バンドでライブ演奏することもあります。
 また、大学時代に*ボクシングをやっていたのですが、卒業後は運動することがなくなってしまいましたので、最近改めて体力づくりのためにジムに通って汗を流しています。
――ボクシングですか。始めるきっかけは何だったのですか。
 元々は空手道場に通っていました。顔面への突きはまだ無い頃で、顔面へのパンチのディフェンスの勉強をしにボクシングジムにも行くようになったところ、3ヶ月くらいでプロテストを受けることになり、それからボクシングがメインになりました。当時は、毎日のように、同門のウェルター級のプロ選手のスパーリングパートナーをさせられていました。かなりパンチ力のある選手でしたので、あばらを折るなど、試合に出るよりもよほどしんどいこともありました。
――で、プロボクサーになった?
 はい。
――・・・・すごい。
 他には2ヶ月に一度、社員と軽自動車の耐久レースに出場しています。始めた頃の順位は最下位でしたが、3、4位と好成績を収められるようになり、素人でもきちんと練習して頑張れば成果が出るのを感じています。
――音楽にボクシング、カーレースと多趣味でいらっしゃいますね。続いて、座右の銘についてお聞かせ下さい。
 偉人の言われたような座右の銘ではありませんが、「感謝・誠実・努力」といったことでしょうか。人に感謝して、天狗にならず、努力し続ける。
 基本的で、シンプルなことですが、難しいことですね。心に留めております。
――人生の転機となった事柄について教えてください。
 3回くらいの転機があったかな、と思うのですが、1回目は、高校進学の時に、親元を離れ一人暮らしをしたこと。
 2回目は、大学卒業後、就職先の会社で先輩に恵まれ、勉強させて頂いたこと。
 最後は、やはり、結婚して家庭を持ち、先代社長と一緒に仕事をできたこと。
 先代社長については、私が当社に入社して社長に就任するまでの7年間、仕事が終わると、毎日、自宅に押しかけ、私の話を聞いてもらっていました。
――思い出に残っている「一皿」についてお聞かせください。
 インドネシアのバタム島での荷役設備の納入は、延べ2年にも及ぶ大変な仕事でした。一通り終わり、従業員とシンガポール経由で日本に帰国する前のこと。東京の焼鳥のお店「白金 酉玉」のシンガポール店に行き、ビールと焼鳥を手に皆で乾杯すると、まだ日本に帰ってないのに、まるでもう帰って来たかのように開放された気分になり、美味しさもひとしおでした。インドネシアの焼鳥「サテー」とは違う、日本の焼鳥は格別でした。
――心に残る「絶景」について教えてください。
 ポルトガル共和国のロカ岬です。断崖絶壁に「ここに地果て、海始まる」という、大航海時代を生きたポルトガルの詩人ルイス・デ・カモンイスの叙事詩の一節を刻んだ石碑が立っています。
 このユーラシア大陸最西端の岬から果てしなく広がる大西洋の大海原と夕日は非常に印象に残っており、もう一度行ってみたいと思うような景色でした。 
 
【プロフィール】(はしもと けいしろう)
1973年生まれ 福岡県出身
1998年 西南学院大学経済学部卒業、ゼネコンに入社
2003年 スペロセイキに入社
2010年より現職
 
■ スペロセイキ株式会社(http://www.superoseiki.co.jp/

記事一覧に戻る