dbg
【マリンネット探訪第8回】
厳しくも、1戦終われば「NO SIDE」のサウジ営業時代
信頼を受け、悲願のケミカル船 中東-欧州航路を切り拓く
< 第511回>2022年01月14日掲載 
 飯野海運株式会社
取締役常務執行役員 小薗江 隆一 氏

 









――飯野海運の油槽船部を担当され、ガス船部や貨物船部、ケミカル船第一部及びケミカル船第二部、そして事業戦略部を管掌されている小薗江取締役常務執行役員です。
2021年10月には、邦船社で初となるアンモニア燃料レディの23,000m3型アンモニア運搬船の新造発注が発表されました。

 アンモニア輸送についてのお話の前に、当社が歴史的に肥料に関連する輸送を多く手掛けてきたという点についてふれておきたいと思います。代表的なものとしては、ガス船部では2005年から2017年までの12年間、サウジ基礎産業公社(SABIC)さん向けのMGC(中型LPG船)での肥料原料のアンモニア輸送があり、もっとさかのぼると、貨物船部では長年のお付き合いをさせていただいている全農さん向けの貨物船でのリン鉱石、カリやリン酸二アンモニウム(DAP)などの輸送や、現在ではケミカル船部によるモロッコのリン酸液のインド向け輸送といったように、LPG船による原料としてのアンモニア輸送のみならず、原料から製品に至るまで肥料の輸送を幅広く手掛けてきました。世界的に食糧問題に注目が集まる昨今、今後、肥料の需要は拡大すると考え、この2、3年、肥料関連の輸送に対しては全営業部で共通の課題として積極的に営業展開をしています。


――長い歴史をもつ、これまでの肥料やアンモニアの輸送実績が大きなアピールとなるのですね。

 このほど決まったアンモニア運搬船の新造発注については、次世代燃料船をめぐる社内の議論において、当社がまず、商品として、アンモニア輸送を手掛けることで、燃料としてのアンモニア使用の検討をお客様と進めることができるのではないかという考えが上がりました。これまで蓄積してきた経験や知見を生かし、アンモニア輸送を次世代燃料船の取組みの打ち手にしようという流れができたところにタイミング良く、今回のご商売の機会を得た格好になります。


タイトル――アンモニア輸送の将来見通しについてお聞かせください。

 アンモニアの生産量自体は2億トン程度とされていますが、地産地消が多く、現在の貿易量は2,000万トン程度にとどまります。ただ食糧問題を受けて肥料原料としての需要増に加えて、今後は火力発電分野で既存燃料との混焼が検討されており、その先、将来的にはアンモニア専焼の計画もあることは、皆さんご承知の通りです。火力発電でアンモニアの専焼が普及した場合、2050年には火力発電向けだけで予想導入量が3,000万トン程度になるとの予測もあります。この需要増に見合ったアンモニアの供給体制がまだ見えないことやアンモニアの価格上昇リスクなど、まだ課題は多いと思いますが、中長期的にアンモニアの輸送需要は大きく拡大すると見込まれています。

  次世代燃料船では様々な開発が行われていますが、やはり自然なのは、輸送するカーゴそのものを燃料として使用する形態だと考えられます。その点では、当社はLNG船については自社保有しており経験がありますし、LPG燃料のVLGCは発注残が2隻あり、メタノールを燃料として使用可能なメタノール船については、2019年に竣工済です。



――目下、次世代燃料のそれぞれに可能性があり、日進月歩で新しい技術が開発されている、まさに端境期ですからね。

 次世代燃料は現時点でそのどれか一つに絞り込まれるのではなく、しばらくは並立して普及していく可能性もあります。それぞれに手を打ち、このほど決まったアンモニア運搬船に続いて、残る水素の輸送についても検討し、全商品の輸送へチャレンジしていきたいと考えています。


――水素キャリアはいくつかありますが、飯野海運さんで有力だとお考えになっているものは何でしょうか。

 MCH(メチルシクロヘキサン、トルエンと水素から生成され、常圧・常温下で液体となる物質)は、弊社の既存のケミカル船隊でいつでも輸送が可能です。ただ水素キャリアについても、初期の段階ではいくつかが同時並行して進み、時を追って変わっていく可能性も考えられますので、当面はMCHを候補としていますが、液化水素運搬船についても念頭に入れておく必要があると考えています。


――先ほどのお話にもありましたが、新造発注されたLPG燃料VLGC(大型LPG船)の1隻目が2022年2月に竣工予定です。本船がノルウェーのエネルギー大手エクイノールさん向け、そして2023年1月竣工予定の2隻目については、オーストリアの石油化学大手であるボレアリスさん向けの定期用船に投入予定とのことですが、欧州の荷主さんは環境対応に積極的ですね。

 IMOによる2050年のGHG50%削減の目標を前に、2023年からは就航船燃費規制(EEXI)や燃費実績格付け制度(CII)の適用が開始します。当社でも、2030年に稼働延べトン当たりの温室効果ガス(GHG)を2008年比で40%、2050年までに総量で50%削減する目標を掲げています。まず一つあるのが、このように時間を区切って定められた国内外のルールを遵守するというアクションです。もう一つ、今後、我々が恒常的に取り組んでいく必要があるのが、いかにして脱炭素化を進めて持続可能な社会を形成していくかという点で、これは会社だけではなく個人レベルのライフタイムの課題であり、地道な努力が必要になると思います。言うまでもなく、環境負荷の軽減と経済性は多くの場合、相反するため難しい議論になりますが、欧州のお客様は環境対応と経済性の両立を目指すモデルづくりに非常に長けていますし、大変熱心に取り組まれています。こうした方々と隣り合わせで会話しながら商売を継続していくことで、我々も環境に対する「文化」を肌感覚で感じて、我々も社内でそうした「文化」を育んでいきたいと考えています。


――日本国内では、環境対応というと何となく外圧的なもののように受け止められる印象もありますが、一方で、欧州の荷主さんの環境対応面への目線はシビアなものでしょうか。
タイトル
 そのように感じます。例えばボレアリスさんは、年間でおよそ800万トンにのぼるとも言われている海洋プラスチック問題に取り組んでおり、インドネシアでプラスチックの回収やリサイクルを行っています。
 海洋プラスチック問題と言えば、必ずと言って良いほど、船会社が悪者にされてきました。当社では、運航しているVLCC 3隻で、海水から高品質の飲料水を造る造水器を設置し、船員には魔法瓶を支給してその飲料水を使用してもらう試験的な試みを行っています。従来のように飲料水をペットボトルで大量に補給するのと違って使用後のゴミが出ませんし、またペットボトル積み込みに要する労力は相当なものですので、その労働負荷からも解放されています。本船の評価が良ければ今後は全社で展開することも検討したいと思っております。環境に対するこういった取り組みも、お客様に対してアピールしていきたいと思います。


――挙両得ということですね。弊社マリンネットでも、大変微力ではありますが、社内の有志で関東近辺の海岸清掃ボランティア活動に参加しております。実際に砂浜でゴミ拾いをしてみて、一度、粉々のマイクロプラスチックに変化してしまうと、手作業での回収にどれほどの労力が必要になるか体感しました。ちなみに、沿岸に打ち上げられるプラスチックごみの大半は、実は海上ではなく、街から川に流れ込んで海に行きついたものだそうです。


――続いて、飯野海運さんの主力であるケミカル船のマーケット動向についてお聞かせください。

 2021年上半期については、各国の経済対策やワクチン接種の進展により市況の上昇が期待された部分もありましたが、原油価格の上昇によるコストアップ、そしてプロダクト船市況停滞時にケミカル船マーケットに流入するスウィング船との競合が回復の足を引っ張る形になりました。地域別にみると、全般的に厳しい中においてアジア市場は堅調でした。一部の商品価格が高騰して急遽、輸送需要が増えたことや、中国での検疫強化により滞船が長期化して船腹供給量が減ったことが理由として考えられます。一方で、寒波によりガルフ地域のオイルリファイナリーやケミカルプラントが大きな被害を受けたアメリカにおいてプラントの修復作業が長期化してしまったことや、純輸入国である欧州の輸出が伸びなかったことから大西洋地域では市況の低迷が続きました。12月に入り、季節的な輸送需要増加に加えて、悪天候の影響による船腹取り直しの特需やプロダクト船市場の回復などの後押しもあり、ケミカル船市場は徐々に持ち直しております。来年から欧州域でのケミカル製品の輸入需要が増加する可能性があり、ケミカル船市況は回復が期待されていますが、コロナやサプライチェーンの混乱がいつ収束するか見えてこないので、本格的な市況回復につながるかはまだ予断を許さない状況です。


――印象に残っているお仕事についてお聞かせください。
タイトル 
  SABICさんとのケミカル船のお仕事を通じて、先方からの様々なリクエストに対して「No」の代わりに常に代案を出し、信頼をいただき、その上で事業を拡大するというビジネスの基本を学ばせていただきました。
  私が運航を担当していた1997年当時は、運航担当者がSABICのリヤド本社から直接ノミネーションをいただき、積み付けのチェックや船陸整合性の確認を行っていました。折しもサウジアラビア出しのケミカル製品が勢いを増して販路の拡大が進んでいた頃です。当時のサウジアラビアでは木・金曜日が休日だったので、新規の揚げ地へ船を寄せたいといった様々なリクエストを受けると、週末返上で対応していました。また私が営業担当になった2000年以降は、中国の需要の急成長を背景にSABICさんは大幅に増産、輸送規模を拡大したいとのご相談をいただきました。当時の当社の主要船型は日本造船所建造の19,000Dwt型でしたが、増産を開始した頃からサウジアラビアの積み地で滞船が問題になり始めたことから船型の大型化を検討しました。新規の揚げ地や相積みするカーゴの組み合わせなど、先方からの多種多様な要望に対して、輸送製品毎の港湾設備の調査を行い、日本の造船所さんからも技術的なご支援とご協力を頂きながら、様々な協議を重ねて、現在に至るケミカル船の大型化を実現できました。その結果として、当社が中東-アジア航路で最大のシェアを獲得するに至りました。
  一方で、当時、SABICさんの欧州向けは北欧の2大ケミカル船社の寡占状態で、アジア航路で実績のあった当社でも参入が難しい状況が続きましたが、対面の担当者との会話を続けた結果、2003年に初めて年間2、3航海のご商売をいただくことができました。日頃から会話のキャッチボールを行い、先方からのご依頼に対して常にアイディアを豊富に出し、それを実践して見せて信頼いただいたことで、2004年からアジア航路と同時に中東-欧州航路への定期配船という夢を叶えることができました。その後、リーマン・ショック前後からサウジアラビア政府の方針で同国のケミカル生産事業には多くの海外企業が参入できるようになり、当社はアジア航路だけではなく欧州航路にも積極的に配船している対応力と柔軟性が評価され、多くの新規契約を欧米のお客様と締結させて頂き、中東では稀だった付加価値の高い新規貨物の輸送も開始することができました。この結果として、経済性と運航面においても中東配船の厚みを増すことが出来たことに加えて、新規の欧米のお客様を介して当社のプレゼンスが欧米市場にも広まったように感じました。僅か「年間2、3航海の欧州向けの商売」が、当社がアジアの「リージョナル
オペレーター」から「グローバル・オペレーター」へ展開するきっかけになりました。このチャンスを頂いたSABICさんの担当者には今でも感謝の気持ちで一杯です。



タイトル――小薗江取締役の営業のご経験は、SABICさんとのお仕事抜きでは語れないのですね。

 彼らとの仕事も、年に数回のサウジアラビア・リヤドへの出張も、きつかったのは確かです。ただ、先方の担当の方との日々のやり取りを重ねていくにつれ、1戦終われば「NO SIDE」の親しい関係を築いていくことができました。ある時、リヤドに着いて先方側とミーティング後、担当の方に「疲れただろう」とトラックに乗せられて2人で向かった先は、砂漠のど真ん中でした。砂の上に敷かれたカーペットに腰を下ろし、トラックに積んであった枯れ木が焚かれると、夕日が段々と沈み始めます。地平線が青から赤に変わり、また赤から青に変わり、今度は手に届かんばかりの一面の星空が現れました。豆をつぶして淹れるアラビックコーヒーを味わいつつ、焚き火を見つめながら、2人だけで語らいました。焚き火の音以外は何も聞こえず、とても癒されました。また彼らと一緒に頑張ろうという気持ちになりました。

――最高の体験ですね。。


――人生の転機となった事柄についてお聞かせください。

 飯野海運には船員として入社し、3年間乗船した後、油槽船部での陸上勤務に転換、それも運航担当ではなくブローキング業務をすることになりました。まだ若かったので陸上のサラリーマン生活も味わってみたいという気軽な気持ちで勤務を始めましたが、半年間商売が決まらず、何とも苦しい体験でした。
そんな中、休止していた社内の短期駐在員制度が再開し、船員籍の自分にも思いがけずチャンスがめぐり、ロンドンとニューヨーク、ヒューストンで計9か月間の研修を経験しました。世界を相手にする海運の面白さを体感し、タンカーマンとしての自分に賭けてみたいと感じるきっかけになりました。



――東京商船大学(現 東京海洋大学)を志望された理由は何だったのでしょうか。

 元々海外志向は強かったので、そのために志望していた大学があり受験しましたが、あいにくその大学と縁がなく、当時の石川島播磨重工業(現 IHI)に勤めていた父から、船に乗るのも良いぞ、と勧められ、一浪して東京商船大学に入りました。


タイトル――座右の銘についてご紹介をお願いいたします。

 中国の古典の言葉「無用の用」です。受験に失敗した時、高校の担任の先生から教えて頂きました。社会人になってからも、無駄と思わず何でもこつこつと頑張ってこられたのは、この言葉に支えられてきたおかげです。
実は大卒後、入社の条件だった海技士国家試験をパスできず、もらっていた飯野海運の内定が取り消しになってしまい、一時は進むべき道に迷いました。そんな時、大学時代の先生の勧めで国家試験に再チャレンジし、次の試験日程で無事合格、その先生のお力添えで飯野海運傘下のイイノマリンサービスに入社し、ケミカル船の「GLOBE OCEANIC」への乗船が決まりました。当時、イイノマリンサービス管理のケミカル船は日本人と韓国人の混乗船が多く、本船にも船長・機関長を含めて5名の日本人が乗船しており、三等航海士だった私は幸運にも徹底的に仕事のやり方を鍛えて頂きました。荷役当直前には必ず、船首側から回って係船索の状態や、26タンクあった各カーゴタンクのバルブと甲板上のヒーティングバルブの全ての開閉状況、カーゴポンプの運転状況、そしてエンジンルームに行って蒸気の状態を確認し終わってから初めて、カーゴコントロールルームに来るように命じられました。こういった一連の動作を通じて、常に自分の眼で確かめて自分の頭で考えることを叩き込まれた思いがします。振り返ると、営業マンとしての私の経歴はケミカル船の担当が一番長くなったのですが、当時、いったん飯野海運とのご縁が絶たれて国家試験に再チャレンジすることになっていなければ、私はケミカル船とは全く関わることがなかったと思います。



――何とも数奇なめぐり合わせなのですね。

 決してドラマチックにお話ししているわけではありませんが、これこそ「無用の用」なのだと感じます。





――ケミカル船にはどのくらい乗られていたのでしょうか。

 「GLOBE OCEANIC」で5カ月間の乗船が過ぎた頃、本船に電報が入り、下船して飯野海運に入社することになりました。飯野海運には戻ることはないと思っていましたから、船長からご連絡を頂いた時には嬉しく感じましたが、やっと判り始めたケミカル船を中途半端に下船することに複雑な思いも感じました。


タイトル
――続いて、夢や目標についてお聞かせいただけますでしょうか。

 庭いじりが好きで、会社の先輩のお誘いでバラを5年前くらいから始めて、今は20鉢とつるバラも育てています。バラは春と秋、年に2回咲くのですが、その合間にも土を替え、施肥、剪定や消毒など、ほぼ1年中手入れをする必要があって根気がいります。ただ手をかければかけるほど、それに応えてきれいな花を咲かせてくれるのが醍醐味で、いつも半年先に咲く花を夢見てバラの手入れを楽しんでおります。


タイトル
――無心で向き合ううちに、自然とリフレッシュできるのですね。

 庭の手入れを通じて、自然と近所に仲間もできました。近所に植木屋さんが庭木の剪定に来ると、一緒になってプロの剪定の様子を見て勉強をする仲間も出来て、暖かくなると庭先でチーズの燻製などで一杯やりながらバラや庭木の手入れの話で盛り上がっております。この数年、何か社会に貢献したいという思いが強くなり、庭木の手入れが好きなオジさんを集めて、植木屋さんの仕事を横取りしない程度で、地域の公園の木々などのお世話ができないかと考えたりしています。一杯やった時に盛り上がる話なので、もしかすると、明日には変わっているかもしれませんが(笑)。



タイトル
――思い出に残っている「一皿」についてご紹介をお願いいたします。

 父の仕事の関係で、私はブラジルのリオデジャネイロで生まれました。母がブラジルに来て1年後に私が、その翌年に年子の妹が生まれ、苦労も多かったようです。そこで現地のメイドさんにお手伝いに来てもらっていて、幼かった私はメイドさんがつくってくれたブラジル料理をたくさん食べて育ちました。その中で一番の好物だったのが、黒インゲン豆をベースに、ベーコンや豚足、豚の鼻や耳、尻尾などの入った煮込み料理「フェジョアーダ」です。群馬県太田市ではスーパーでブラジル食材が手に入るので、今でも年に何回か足を運んでいます。ブラジル料理を食べると、幼い頃住んでいたリオデジャネイロのコパカバーナの風景や子供の頃が懐かしく思い出されます。


タイトル――心に残る「絶景」についてお聞かせください。

 駐在でニューヨークに赴任した1992年、ちょうど結婚後間もない頃でした。現地では船舶管理のサポートを担当し、折しもOPA90(1990年米国油濁法)の対応で連日連夜、残業続きでした。そんな中、せっかくの年末年始は家内と一緒の時間を大切にしたいとの思いで、ニューヨークからヒューストンへ飛び、ヒューストンから車で1週間のラスベガスへのツアーに参加し、お正月はグランドキャニオンで迎えることになりました。グランドキャニオンを赤く染める初日の出を見て感動しました。当時はプレッシャーもあって仕事の悩みが尽きなかったのですが、グランドキャニオンの雄大な眺めや滔々と流れるコロラド川のスケールの大きさに比べて自分の悩みがとても小さなものに感じて、すっかり気持ちをリフレッシュできました。家内もグランドキャニオンを含めて、このツアーで訪れたアメリカの大自然にとても感動したようで、素晴らしい思い出になりました。





 
【プロフィール】
小薗江 隆一(おそのえ りゅういち)
1960年生まれ ブラジル・リオデジャネイロ出身
1984年 東京商船大学商船学部航海科卒業
1985年 飯野海運入社
2006年 海運営業第5グループリーダー兼IINO SINGAPORE出向
2010年 同 Managing Director
2013年 取締役執行役員
2016年より現職
 
■飯野海運株式会社(https://www.iino.co.jp/kaiun/index.html/

記事一覧に戻る