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【マリンネット探訪第11回】
創業時の恩を忘れず、船隊はほぼ日本建造船
「足るを知る」心で船主経営を堅実にーー
< 第515回>2022年04月11日掲載 

ウィズダム・マリングループ
上席取締役・日本代表 福井 正幸 氏

 








――台湾船主、ウィズダム・マリングループの福井 正幸上席取締役・日本代表です。同社の日本総代理店である株式会社 洋行の社長を務められています。ウィズダム・マリングループの船隊は、ケープサイズからパナマックス以下、スモールハンディまでの船型を自社保有をメインに一部、裸用船を含めて計138隻に上ります。創業の経緯についてお聞かせください。

 1999年、中古船ブローカーをしていた私と、台湾の老舗船主ファースト・スチームシップ(益航)の社長を務めていたジェームス・ラン(現 ウィズダム・マリングループ会長)の2人で立ち上げた会社です。ジェームスから電話で「一緒に会社をやろう」と誘いを受けた当時、私はちょうど50歳で、このまま中古船ブローカーを続けていくべきか迷いが生じていた頃でした。良いチャンスだと誘いに乗り、2人で有り金をはたいて船齢6歳の6,300Dwt型ツインデッカー(二層甲板型貨物船)1隻を購入したのがウィズダム・マリンの始まりです。

――ジェームス・ラン氏とは旧知の間柄だったそうですね。

 きっかけは1984年にさかのぼり、彼が自分の兄の会社であるシーウェイ・ナビゲーション(四維航業)に勤めていた頃、私が取引の仲介をした船の引渡しの場で知り合いました。それ以来、彼のシーウェイ、そしてファースト・スチームシップ時代、長年にわたり中古船売買の仲介を任せてもらってきました。会社のスタート当時は、長い付き合いのあるジェームスと一緒にやって、もし失敗したのなら、また中古船ブローカーに戻れば良いという、そんな気持ちでした。

 その後、近海船事業を進め、商船三井近海さんの中古船3隻をチャーターバックしてもらい、続けて渡邊造船さん(現 しまなみ造船)で新造船を8隻造りました。また、当時は我々も手元資金が潤沢ではなかったのですが、2000年当時は市況が低迷しており、船台が空くくらいなら、と先方にご協力いただき、最初の2隻は延払いで、残りの6隻は通常のディールで契約を結ばせてもらいました。続けて村上秀造船さんでは、村上 啓二 現会長の社長就任後間もない頃で、新たな顧客を開拓する先方のニーズに運良くマッチしました。頭金を1割払い、残りは先方が船主になる形で裸用船契約を結んで船を使わせていただきました。ご信頼いただき連続で3隻建造したのに始まり、現在18隻にまでなっております。

――創業間もない頃に支援してもらった経緯があるのですね。

 村上秀造船さんでは、年間で5隻のキャパシティに対して数年の間、連続して3隻を発注していたところ、他の顧客向けの船台が埋まってしまう、とのことで、その後はカナサシ重工さんでも8、9隻建造しました。2009年の同社の経営破綻時には未竣工船が3隻ありましたが、関係者と協議を重ね、無事引き渡しを受けることができました。



 続けて、大型船型では大島造船所さんでの建造が続いたため発注先を広げることになり、ブローカーのイーウェーブさんのご紹介で今治造船さんとのお付き合いが始まりました。ウィズダム・マリンの台北本社で、檜垣 幸人 氏(現 代表取締役社長)と清志 氏(現 代表取締役専務)、イーウェーブの吉田氏、深町氏と我々の6人で語らい、その場で28,000Dwt型ハンディサイズバルカー2、3隻の商売が決まりました。

――このスピード感と言ったら!

 その後も、函館どつくさんを含む名村造船所さんや川崎重工業さん、常石造船さん、ジャパンマリンユナイテッドさん、尾道造船さんでも建造し、日本の様々な造船所とのお付き合いが深まり現在に至っています。



――ほぼ全て、日本造船所で建造されていらっしゃるのですね。

 仮に、中国建造のバルカーの建造船価が3割安いとします。ただ10年や15年といった長期的なスパンでは、修繕費やオフハイヤーに起因する損失、また本船トラブルが発生する可能性等、諸々の「コスト」を考えた場合、この船価差は無いに等しいのです。日本造船所ではアフターケアもきめ細かく、皆さん本当によく対応してくれます。そうである以上、我々は海外造船所への発注という浮気はできません。我々は日本造船所で船を造ります、とスタンスは一貫しています。良いとこ取りはできません。




タイトル――2021年には、いずれもEEDIフェーズ3をクリアした82,000Dwt型3隻、64,000Dwt型4隻、40,000Dwt型6隻、14,000Dwt型近海船1隻、計14隻を複数の日本造船所へ発注され、日本造船所の友好船主として注目を浴びました。

 我々はスぺキュレーター(投機家)とは異なり、基本的に例年、コンスタントに発注しています。2020年は新型コロナの関係で1999年の創業から初めて1隻も発注がなく、2021年に代替発注を再開した形です。大部分は2021年2月から5月、新造船マーケットが上昇する前の発注です。

――素晴らしいタイミングですね。

 これまでのマーケット感覚で好機を捉えられたのに加えて、我々は定期的に発注している分、造船所から良い案件をもらえるのです。私のところでお話をもらったらその場でジェームスと会話して、翌日には回答しています。買船はほぼ即断即決です。その意味では、我々はファイナンスありきではなくとも動ける強みを持っております。カムサマックスまでのサイズの船を、自分達の感覚で造ることができます。

――これこそがウィズダム・マリンさんの特長ですね。創業時の恩を忘れず、出会いと人脈を大切にして幅広くお付き合いをされていることが生きているのですね。

 ただ、基本としては毎年定量発注しているため、当然、船価が安い船もあれば高い船もあります。

――決して底値買い一辺倒ではないということですね。

――ウィズダム・マリンさんの業績についてはいかがでしょうか。

 2022年で会社の立ち上げから23年になりますが、2008年のリーマン・ショック後を含め、赤字を出したことは今までで一度もありません。2020年期中は新型コロナの影響で一時、苦しい時期もありましたが、第4四半期で挽回し、400万ドルの黒字となりました。2021年はバルカーの市況高騰がチャンスになり、純利益が2億9,600万ドルとなりました。


タイトル ただ一方で、「自分がやったんだ」とうぬぼれたことは一度もなく、船隊を何隻に拡大しよう、と意図したこともありません。与えられた環境に感謝して一歩ずつ歩みを重ねた結果、現在の規模に発展していきました。また、運に恵まれたことも大きいです。

――創業間もない時期に渡邉造船さんや村上秀造船さんといった方々に出会ったご縁ですね。

 加えて、会社の立ち上げと時期を同じくして中国が経済発展を遂げていきました。当時ジェームスが私に言ったのは、これからは、卵を1人1つ食べていた中国人が2つ食べるようになる、つまり、10億個で足りていたものが20億個必要になり、これは卵だけの問題にとどまらず、モノ全ての需要規模がケタ違いになっていくというものでした。

 同時にラッキーだったのが、北朝鮮の貨客船”万景峰”号の一件です。2000年頃の近海船マーケットには、北朝鮮や中国のサブスタンダード船が大量に流入して市況低迷を招いていました。ところが、拉致問題をきっかけに”万景峰”号がクローズアップされると、日本各地の港で放置されている北朝鮮の座礁船の処分費用を地方自治体が負担していることが明るみに出たのです。当時の運輸省の通達で、日本寄港船は同省の認めたP&Iクラブへの加盟が必須条件となりました。このお陰で、こうしたサブスタンダード船がマーケットから退出し、船腹量が引き締まり運賃は急上昇、我々は近海船マーケット上昇の波に乗ることができました。

またこの後には、日本郵船さんとのお付き合いを通じて規模が拡大し、現在のウィズダム・マリンの土台ができたと感じています。2006年頃、同社の小林 進二 氏(後に代表取締役副社長、日の出郵船社長)から近海船5隻、そして2009年頃には、イーウェーブさんのご紹介で日本郵船さんよりケープサイズ3隻、ライトバルク船1隻の新造案件を頂き300億円を超える案件になり、台湾の銀行の信用を得るきっかけになっております。加えて2014年には、川崎汽船さんよりカムサマックスバルカー3隻の竣工時売船の案件をいただき、新たな挑戦となりました。日本のオペレーターの皆様のお力添えのお陰で現在に至っており、そしてまた多数の金融機関関係者の方々には、長年にわたり多大なご支援を頂いており、皆様には大変感謝しております。


タイトル――脱炭素化を見据えて次世代燃料船開発の動きが加速する中、今後の代替発注における環境規制対応についてのご見解をお聞かせください。

 非常に難しい問題ですが、LNG燃料船のCO2排出量は重油焚きと比較して25~30%の削減であり、100%削減できるわけではありません。追加コストとの見合いやLNG燃料に習熟した船員の配乗等の問題を考えると、LNG燃料船の発注は選択肢にはなく、EEDI(エネルギー効率設計指標)フェーズ3をクリアする環境性能に優れた新造船を発注する方向です。またCO2削減に関しては、例えばシャフトジェネレーター(軸発電システム)による推進装置とバッテリーシステムを搭載することで補機を回さず入港時のゼロエミッションを実現できるシステムや、動力として風力の利用も選択肢に入れています。

――話題は変わり、ロシアによるウクライナ侵攻問題を受け、海運業界への影響についてご見解をお聞かせください。

 良い影響はまずないと考えています。短期的には船腹量の逼迫等による市況上昇の可能性もありますが、このような事態でもうかったとすれば火事場泥棒のような、一番やってはいけない商売だと感じます。オーソドックスですが、普通に船をもって普通にもうかるのが長続きする秘訣です。


タイトル また、ウクライナ侵攻問題をめぐってカントリーリスクというものが浮き彫りになったと感じます。中国はバルカー量産国ですが、現在の中国の在りようから将来を考えると、バルカーの供給国として最も安定しているのは日本ということになるのではないでしょうか。








――これまでのご経歴についてお聞かせください。

 1970年代、団塊の世代である私が20代だった当時は就職競争が激しい時代でした。たまたま祖父の代で米国に移住しており、いっそ米国へ行こう、と現地で暮らす叔母を頼って渡米しました。働きながら英語学校に通った後、叔母の支援でカリフォルニア州のチャップマン大学に入学しました。ディズニーランド・リゾートのあるオレンジカウンティのアナハイムにあり、現在では、大谷翔平の所属する大リーグのロサンゼルス・エンゼルスの本拠地としても有名です。

タイトル 大学卒業後は鉢植えの花の営業職に就き、10名弱のメンバー中、唯一の外国人である私が10カ月で営業成績ナンバーワンになったのです。ただ特に米国に未練もなく、長男だったので母親の面倒を見るために日本に帰国しましたが、当時は英語で商売してナンバーワンになれたのだから、日本語で商売して食っていけないはずがない、という思いでした。英字紙ジャパンタイムズに毎週月曜日、自分の経歴を載せると興味を持った企業がコンタクトしてくるというバイリンガル向けの求人広告「Classified Ads」があり、これをきっかけに出会ったのが、東京フレイティングという中古船売買・用船の仲介会社です。

――これが海運業界との最初の出会いだったのですね。

 どんな会社か全く知らないまま面接に行ったのですが、その場で入社が決まり、中古船の売買仲介を担当することになりました。入社して半年足らずで1隻目のディールを決めさせてもらい、その時以来、大変お世話になったのが、カリブ海で近海船事業を手掛ける同和ラインの瀧川会長でした。社員以上に叱られることもありましたが、大変かわいがっていただき20年近くの間、中古船売買の仲介を150隻ほど担当させていただきました。このほか、日伸海運の藤井 彌生社長にも中古船の売買、10数隻を任せていただきました。そのうちにジェームスとの付き合いが濃くなり、ウィズダム・マリンを立ち上げることになったのです。

――たまたまジャパンタイムズの求人広告をきっかけとして、大きな成功をつかまれたのですね。

 その意味では、うぬぼれも強いです(笑)。自分は今でも日本一の中古船ブローカーだと思っています。今でも懇意にさせていただいている船主さんからのご依頼があればブローキングをすることもありますが、ウィズダム・マリンの本業で忙しく、また元々余りがつがつしたタイプではないので。。ブローカーをしていた当時も、このまま続けて良いのかと漠然と迷いが生じた時、ちょうどジェームスからの誘いがあって乗った形です。今思えば、助け船ですね。

――人生の節々で、チャンスをくれる「宝船」がやって来るのですね。

 躊躇することなく、その時々でうまく「宝船」に乗れるよう決断してきたことがプラスになっています。信頼できる方々との出会いに恵まれたのはとても幸せなことだと感じます。


タイトル――印象に残っているお仕事についてお聞かせください。

 中古船ブローカーをしていた頃、北朝鮮に貨物船を売ったり、旧ユーゴスラビアの船社に船を売ったりして、こうした少々リスキーな商売はその分、印象深いですね。北朝鮮船籍の船は、当時、金沢港と横浜港にしか入港できず、驚いたことに、20数人乗りの船に40何人も乗って引渡しを受けにやって来ました。連れて来たダイバーが船底調査で潜ろうとしたところ、税関の検査官が24時間待機していて、慣習的に北朝鮮人の船底調査は認めていないとのことでした。買主からお金を受け取れるか心配でしたが、朝鮮系の商社の方から「うちが支払います」とコンタクトがあり、どうやって取り立てるのですか、と聞いたところ、魚介類との物々交換、とのことでした。
ユーゴスラビア向けの商売では、売主の船主さんと共にマルタ島での引渡しに立ち会いました。取引条件は4年の延払いで、最後の支払いが終わって間もなくユーゴスラビアは解体し、すんでのところで代金未回収の事態を免れました。


――ぎりぎりセーフだったのですね。

――人生の転機となった事柄についてお聞かせください。

 やはり、ジェームスとの出会いです。中古船取引の仲介に始まり、公私ともに付き合って40年ほどになる友人です。

――座右の銘についてご紹介いただけますでしょうか。

 「足るを知る」です。今あることに感謝し、満足するということです。これまで様々な幸運が重なりました。

――幸せのオーラが出ていると、自然に人は集まってきますものね。

 私は人生、後ろ向きが嫌いなので、大変な時にはこれも勉強、とプラスに考えてやってきました。

――最近感動したことまたは、夢や目標についてお聞かせください。

 家族がいつまでも幸せでいられること、そして、これまで絆を深めてきた様々な知り合いや友人達と、お互いに元気で長いお付き合いができればと願うばかりです。


タイトル――思い出に残っている「一皿」についてご紹介ください。

 ジェームスの出身地の澎湖島は、観光地でもありまた船主や漁業関係者が多く、雰囲気が今治に似たところがあります。あるパーティーの前日、彼が経営する台湾・澎湖島のホテル「ぺスカドーレ・リゾート」に集い、台北の有名レストランで腕を磨いたシェフによる中華料理のコースは絶品でした。澎湖島の新鮮な海鮮の旨味を生かした品々はどれも素晴らしく、本当の中華料理とはこんなものかと思いました。ただ、美味しさに感激したせいか、具体的に何を食べたのかは記憶にとどめられていないのですが(笑)。


タイトル――心に残る「絶景」についてご紹介ください。

 渡邊造船さんで建造した新造船の第1船目の進水式です。会社の立ち上げ当時は、日本の造船所で新造船を造れるとは思ってもいませんでしたので、感慨深いものがありました。
面白いのは、この船の航空写真なのです。見てください、この船をどの角度から見ても舳先が自分の方を向いているように見えるんです。面白いでしょう。


――ああ、本当だ(驚)。これは絶景ですね。










しまなみ造船(旧 渡邊造船)

 
【プロフィール】
福井 正幸(ふくい まさゆき)
1949年生まれ 東京都出身
1974年 米国チャップマン大学経済学部卒業、現地での営業職を経て
1975年 東京フレイティング入社、中古船売買の仲介を担当
1983年 洋行船舶(現 洋行)を共同で設立
1999年 Wisdom Marine Groupを共同で設立

■Wisdom Marine Group(http://www.wisdomlines.com.tw/wisdom/php/home_e.php

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