株式会社マヤテック
代表取締役社長
五代 友行 氏――――国内船主や造船所向けに舶用製品を供給し、創業から70年以上の歴史がある、舶用機器専門商社、株式会社マヤテックの五代 友行社長です。マヤテックの概要・特色について、ご紹介をお願いいたします。
当社は、1951年に舶用機器を取り扱う商社として誕生しました。創業時は、川崎重工業製品の造船所への販売を行うことを目的としていましたが、造船所から他の舶用機器についても取りまとめるように依頼があり、そのこときっかけに舶用機器専門商社として、他社製品のラインナップも徐々に拡大してきました。当初は新造船向けを中心に舶用機器を提供してきましたが、アフターサービスの重要性を感じ、「船を止めない」という役割を追求する中で、今治に「MAYAパーツセンター」を設立して、アフターサービス部品の迅速な供給体制も整えました。特に我々の取り扱う製品は、オフハイヤーに関わる部品も多いため、不具合が起こった時に、迅速に対応する必要があります。そのためには、各メーカーとの信頼関係が何よりも重要であると考えています。
当社の起源に遡ると、先祖は幕末の明治維新の時代に活躍した五代 友厚氏の本家にあたり、友厚氏と松方 正義氏(総理大臣や大蔵大臣を歴任し日本銀行を作った)は友厚氏の葬儀を松方氏が取り仕切るほどの間柄でした。川崎造船所(現:川崎重工業)が株式会社化し、その初代社長が松方 幸次郎氏です。私の曾祖父はその幸次郎氏にお声掛けいただき川崎造船所に勤務することになり神戸に移り住みました。そこから川崎重工とのご縁が続いています。当社の創業者である祖父(五代 圭一氏)も川崎造船所に入社し、工場長を務めていました。祖父はその後戦争へ出征し、戦後神戸に戻りましたが、川崎製鉄の初代社長 西山 弥太郎氏に誘われ、鉄鋼商社の設立に参画をしました。しかし、祖父は船の仕事を強く志望していたことから独立を決意し、1951年に当社の前身である山陽商事を創業、その後、1953年に前述の西山氏の命名により摩耶商事に改称し、創業40周年となった1991年に現社名マヤテックに改称しました。――――甲板機械・舵取機・主機をはじめ、様々なメーカーの品物を取り扱われています。新造船のほか、船舶修理向けの対応もされていますが、アフターサービスへの対応における強みをお聞かせください。
メーカー各社製品のアフターサービスにおいて、より迅速且つスムーズに、お客様のご要望にお応えすることができるよう流通経路を確保し、各メーカーと協力しながら供給体制を整えています。先ほども少し触れましたが、今治には「MAYAパーツセンター」を設置し、甲板機械・舵取機用の部品在庫を持って、船舶の安全運航のサポートに注力しています。部品供給という役割は、地味ではありますが大変重要であり、「スピード」がお客様との信頼にも繋がる要素なので、真摯にコツコツと対応し、実績を積み上げています。これらの地道な信頼関係構築によって、緊急度の高い部品を最短納期で供給することができると考えています。
――――昨今の環境規制強化やDX化などの動きが加速する状況において、取扱製品や社内の変化について、お聞かせいただけますでしょうか。
売船などを経て、日本建造船が海外で長く活躍していますが、それらの運航のサポートに今後ますますDXが役立つと考えています。船舶業界のDX化に向けて、当社の立場として率先的にやるべきことは、限定的かもしれませんが、どのように役に立つことができるか、慌てずじっくりと見極める必要があると感じています。我々の役割は、造船所とメーカーを繋ぐ潤滑油として機能することがメインですが、運航トラブルの際の部品供給に必要なDXがあれば、対応すべきと考えています。デジタル情報の活用については、現状、オンライン上で船舶の動静を把握する際に使用しています。DX化は、BEMACさんなど、先行しているメーカーさんもいますので、その方々の動きも注視しながら、我々の身の丈でできることを考えていきたいです。
社内に関しては、コロナ禍を受けて、リモートワークを早急に導入しました。当社は船上で働くエッセンシャルワーカーを陸上からサポートしていますが、船を止めないために、そして安定して業務を遂行するために、今後も柔軟に見直しを行う必要があると考えています。
――――これまでのご経歴についてご紹介をお願いします。
出身は神戸で、大学進学のタイミングで上京しました。次男として生まれたので、親は私に事業を継がせる気は無く、おかげで自由に育ちました。大学在学中に父の紹介で当時衆議院議員だった、故 鴻池 祥肇(よしただ)氏のもとで、社会勉強も兼ねてお手伝いすることになり、20歳から約5年間、議員周辺のありとあらゆる雑用雑務(苦笑)を経験し、うち3年間は秘書として議員会館での執務を経験しました。選挙も経験し、今思うと大変貴重な経験でしたが、議員関係の仕事を生涯の生業にすることは本意ではないと考え、先ずは大学卒業のために学業に専念すると親に申し出ました。しかし親から帰ってきた言葉は「働きながら卒業しなさい。」の一言でしたので、マヤテックに入社し、東京営業所勤務となりました。入社するまで、議員秘書という特殊な世界に身を置いていたので、入社当時はお金を稼ぐことの実務を知らず、カルチャーショックも多くて苦労しました。その後1999年から神戸本社勤務を経て、2006年に社長に就任し、結果的に私が事業を継ぐことになりました。


――――人生の転機についてお聞かせください。
議員秘書の頃、国政選挙や地方選挙の応援で選挙活動を行う中で、人に動いていただくのは、本当に難しいと知ることが出来たことです。ボランティアで参加してくださる方々に、どうしたら前向きに気持ちよく、一緒に汗を流してもらえるかを必死で考えました。「人の使い方を勉強しろ。」という後援者であった経営者の方の言葉もいただき、ボランティアやアルバイトの方々の気持ちを盛り上げて共に取り組んでもらうために可能な限り自分が率先して行動すること、そして誰よりも多く、最後まで動き続けることを行いました。結果的に、それを見た周囲の人が応援をしてくれ、一緒に行動してくれました。当時の私に出来た、精いっぱいの行動でしたが、社会人の入口の時期に寝る間もないほど必死に働く機会を得られたことは、本当に良かったと思っています。――――「座右の銘」についてご紹介をお願いいたします。
欲張りで沢山あるのですが(笑)、私がこれまでに出会った次の3つの言葉です。1つ目は「一期一会」です。この言葉は、議員秘書時代にお世話になっていた鴻池代議士の座右の銘でした。一つひとつのご縁に感謝することを大切にしたいと思っています。2つ目は、「五常(五徳)仁義礼智信」です。これは生きて行く上で、大切な考え方の全てを網羅していると思っています。3つ目は「人事を尽くして天命を待つ」です。これから先の将来の生き方として、ジタバタしてもしょうがない、やるべきことを真摯にやり続けて、結果は天命。そのように考えて日々歩んで行きたいと考えています。――――最近感動したできごと、または夢や目標について教えてください。
子供たちが一生懸命力を合わせて取り組む姿に大変感動します。チームスポーツや吹奏楽、チアリーディングなど、学生や子供たち力を合わせてがんばっている姿を見ると、何とも嬉しく、とても感動してしまいます。
夢や目標は、社業においても、自身の社会生活においても、先ほどの「座右の銘」で紹介した「人事を尽くして天命を待つ」ことです。気持ちよく、スマートにリタイアしたいと考えていますが、私自身が社会に貢献できるうちは精一杯頑張りたいと思っていますし、次世代に引き継ぐ際にも、良い形でバトンを渡せるよう、今できる最善を尽くしたいと考えています。――――思い出に残っている「一皿」についてお聞かせください。
神戸元町のビストロ「Bec」のフィレステーキです。大変手間と時間がかかる調理法で、肉を休ませながらゆっくりと焼き上げるのですが、ステーキなのにビーフシチューのような仕上がりのステーキでした。実はこのお店のシェフは、昨年(2022年)47歳で他界してしまったため、もう二度と食べることができない味です。全ての調理において、彼にしかできない加熱の技術が凄まじく、残念ですが、忘れられない逸品です。ステーキ以外の食事も絶品で、パテも生肉に見えるほどの絶妙な火入れで、味も最高でした。
神戸にはありがたいことに素晴らしいレストランが多くあります。その中でも特に若いシェフを中心に頑張っているビストロをご紹介します。「LE BOOZY(ルブージー)」というお店です。隣には姉妹店のベーカリー「THE BAKE」もあって、夕方からは呑めるパン屋として立ち飲みも楽しむこともできるので、カジュアルに楽しめます。
この他に、当社近くのおすすめのお店は、「神戸元町別館牡丹園」です。広東料理の老舗で、何を食べても美味しいです。


――――心に残る「絶景」について教えてください。
色々思い出はありますが、瀬戸内海のまさに「しまなみ」に沈む夕日は特にお奨めしたい絶景です。
【プロフィール】
五代 友行(ごだい ともゆき)
1967年生まれ 兵庫県神戸市出身
1993年 株式会社マヤテック 入社
1996年 慶応大学法学部政治学科通信教育課程 中退
2006年6月より現職
■株式会社マヤテック(https://www.mayatec.co.jp/)