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【マリンネット探訪 第33回】
船の生命線を作り続けて70年
船舶用電線のトップメーカー
< 第546回>2024年05月20日掲載 


ヒエン電工株式会社
代表取締役社長
山鳥 剛裕 氏













――約半世紀にわたって船舶用電線の製造販売を手がけ、船舶用電線で国内トップシェアを誇る、ヒエン電工株式会社の山鳥 剛裕社長です。ヒエン電工の概要・特色について、ご紹介をお願いいたします。

 当社は1954年に祖父(故 山鳥修治氏)が大阪被鉛電線工業株式会社として創業しました。社名にある「ヒエン」というのは、創業当時の電線は鉛で被覆していたことに由来しています。祖父は元々、古河鉱業(現:古河機械金属グループ)に勤務していましたが、第一次世界大戦を機に退職となり、その後定年まで住友電気工業で技術者養成用の教員として勤務していました。祖父は自ら商売を立ち上げたいという強い想いがあり、定年後に会社設立を決意したようです。設立後は前職で培った電線作りの知見を活かして製造設備の小型化を実現し、当初は陸上用電線(地下埋設ケーブル)を中心に製造していました。しかし将来的な同市場の競争激化を見据えて、船舶向けの電線に軸足を移しました。当時同業は当社含めて14社存在していましたが、特に陸上用に関しては競争が激しく、その後急速に淘汰が進んだようです。
 1960年には、現在の「ヒエン電工株式会社」に商号を変更しました。大阪に留まらず、全国展開したいという想いと、電線以外の事業に多角化したいという希望も込めたと聞いています。
 2000年頃まで業績は好調に推移していましたが、その後造船不況に入り、大変厳しい状況が続きました。円高進行も相まって輸入製品に対する競争力が低下し、電線以外の新事業の検討を行ったり、社内の生産体制の見直しを図ったりしました。その中で当時社長を務めていた私の父が、トヨタ自動車が考案した生産管理方式「かんばん方式(HPS:Hien Production System)」の導入を決定しました。それまでは倉庫を借りて在庫を抱えていましたが、受注生産に切り替えたことで、在庫管理コストの削減と当時手掛けていた新製品の生産設備の設置を実現することができました。運用開始当初は社内外から納期を心配する声もありましたが、造船のリードタイムにも適切に対応することができ、問題なく製品を納入することができました。また、受注から生産までの一連の流れが社内の一体感を生み、トラブル対応含めて生産性向上に対する社内の意識改革にも繋がりました。
 当社の主力製品は、創業当時から手掛ける船舶用電線であり、約70年にわたる歴史の中で培った技術とお客様との信頼関係によって、おかげさまで日本国内の多くのお客様とお取引をさせていただいております。このほかに、船舶用電線の製造で培った「被覆(防錆加工)」技術を応用し、土木・建築業界のプレストレスコンクリート用途に適した被覆PC鋼材や、機能性シート・フィルム、さらに光ケーブルの吊具「スーパーハンガー」の製造・販売などを行っています。



――国内トップシェアの船舶用電線以外にも、ワイヤー被覆や機能性フィルムなども手掛けられています。御社製品の強みについてご紹介をお願いします。

 創業者である祖父も船舶用電線以外の事業の多角化を目指していましたが、当社製品は船舶用電線の製造を起源に、その製造技術を様々な製品開発に応用してきました。船舶用電線事業以外では、高機能製品事業としてワイヤー防錆被覆、機能性シート・フィルム、光ケーブル用支持具「スーパーハンガー」の製造・販売を手掛けています。ワイヤー防錆被覆は、建築土木業界のプレストレストコンクリート用途向けの被覆PC鋼材で、国内の高速道路やダム建設向け等に納入実績があります。機能性フィルムに関しては、電線の製造工程で電線収束用のテープとして内製していたものを応用して製品化しました。電力ケーブル用の遮水テープや熱遮断、電磁波遮断、耐熱、防錆など様々な機能性シートやフィルムを土木建築、エレクトロニクス、医療・メディカル、自動車など、幅広い業界に販売しています。
 当社製品の納入先は、船舶業界のほかに電線業界、建築土木業界など様々ですが、夫々の業界において高い専門性を有する営業担当を社内に配置しています。そのため、業界間の双方向の情報共有が可能であり、新規ビジネスのアイデアが生まれやすい環境である点は強みといえます。



――海運業界のみならず、世界的に脱炭素化の動きが加速する状況下において、御社の製品開発や製造工程等、事業活動における新たな取り組みについてお聞かせください。

 製造工程における環境負荷低減の取り組みとして、電線を巻いて出荷する木製の巻き芯ドラムを再利用しています。その他製造工程で生じた廃材等に関しても、徹底した分別回収と再利用によって廃棄物の減少に努めており、結果としてコスト削減にも繋がっています。
 事業活動で使用する電力にはヒートポンプやIH方式を導入し、消費電力を抑えてCO2(二酸化炭素)排出削減を実現しています。また、夏場の暑い時期は、製造時に使用する工業用水を工場の屋根部分に定期的に散水し、高温になりやすい工場内の温度上昇を抑制し職場環境改善に取り組んでいます。



――これまでのご経歴についてご紹介をお願いします。

 岐阜県出身で、父の転勤で小学校2年生まで岡山県玉野市で過ごしました。しかしその後、祖母の看病のため、母親と子供たちだけで母方の両親が住む千葉県へ移住することになり、父と離れて生活をしていました。
 中学生から高校生の頃は千葉県船橋市で過ごし、大学は山口県の東京理科大学山口短期大学(現:山口東京理科大学)材料工学科へ進学しました。1992年に住友電工に入社後は横浜製作所に配属となり、光ケーブル製造部門で生産技術に関わる仕事を経験しました。その後は生産管理、設計技術などの部署を経て、2000年からシンガポール駐在で約3年間勤務しました。駐在を終えて日本に帰国後に同社を退職し、2003年8月にヒエン電工に入社しました。入社後は約2年間工場勤務を経験し、企画管理室などを経て2008年に取締役常務執行役員となり、2012年6月に社長に就任しました。
 私が社長になることを意識し始めたのは小学生の頃です。当時社長だった叔父が、小学5年生の私に「会社を継いでくれるか?」と尋ね、これに対して私は「うん。」と返事をしました。それを見ていた母親からは「あなたが好きなことをして良いんだよ。」と言われたことを覚えています。当時のこの一連の会話が、何故か今でも鮮明に記憶に残っているのです。私自身、創業者である祖父に対する尊敬の気持ちがありました。その時の返事はそういった感情から自然と出てきたものでした。




――人生の転機についてお聞かせください。

 住友電工時代のシンガポール駐在の経験です。同社では様々な経験をさせていただきましたが、特に強烈に印象に残っているのが駐在経験です。シンガポール以外の東南アジア(マレーシア、インドネシア、フィリピン、ベトナム、タイ、インド)のセールスエンジニアを担当していましたが、各国との文化や価値観の違いに大変苦労しました。パキスタン向けに新規受注を獲得した直後に9.11の同時多発テロが起こったり、2002年にはSARS(重症急性呼吸器症候群)が流行し、シンガポール国内の厳しい統制の元で行動が制限されたり、社会情勢の変化における厳しさも経験し、とにかく鍛えられました。そのような状況下で苦楽を共にした仲間たちは、今でもかけがえのない存在です。


――「座右の銘」についてご紹介をお願いいたします。

 孔子の「論語」の一説にある『知・好・楽』です。「これを知る者は、これを好む者に如かず、これを好む者は、これを楽しむ者に如かず」何事においても、それを知っている人だけの人は、それを好きな人にはかなわない。またそれを好きなだけの人は、それを楽しんでいる人にはかなわない。まさにこの言葉のとおりだと思っています。また、私の持論ですが、ただ楽しければ良いというだけでなく、何のために取り組んでいるのかということも自分に問うようにしています。


――最近感動したできごと、または夢や目標について教えてください。

 最近感動していないことに気づきました(苦笑)。そのようなアンテナさえ張れていなかったです。
 夢は当社として100年企業を目指すことです。今年(2024年)8月で私が現役社長として70周年を迎えますが、100周年を迎える時私は84歳になっています。その時に未来の経営陣と共に100周年の式典に参加することが夢です。そのためにも今の事業を育てて邁進していきたいと思っています。また、日本国内で電線を作り続ける中で、今後国防に関わる防衛省向けの電線供給も手掛けていきたいと考えています。
 このほかに、当社はホールディング会社がありますので、工場を持つ福知山の耕作放棄地やOBが保有している農地を活用して京野菜を栽培する農業法人を傘下に立ち上げ、雇用創出や地域活性化に貢献したいと考えています。これらの新規事業も含めて、100年企業に向けて歩んでいきたいです。



――思い出に残っている「一皿」についてお聞かせください。

 シンガポール駐在の時に初めて食べた「文東記(ブン・トン・キー)」のチキンライスです。鶏の出汁で炊いたご飯の上に蒸し鶏をぶつ切りにしたものを乗せて食べるシンガポールの伝統的な料理ですが、当時の思い出と相まって記憶に残っている一皿です。
 近所でよく行くのは「お好み焼き 白鳥」です。鉄板焼きやお好み焼きがとても美味しいのでお勧めです。




――心に残る「絶景」について教えてください。

 6年前、当時小学2年生だった息子と登った富士山8合目から見た雲海です。これは最高でした。
 息子も疲れ果て、泣きながらどうにか8合目まで登りましたが、そこで見た景色が今でも忘れられません。
 最近では、日本舶用工業会の次世代会の仲間と訪れたスコットランドが印象に残っています。コロナ禍前に私が幹事を務めたタイミングでしたが、セントアンドリュースのエデンコースを回ったり、エディンバラを訪れたりしました。この次世代会は、次世代を担う次期社長や若手社長で構成されており、若手メンバーを中心に日本舶用工業会の横の繋がりを深めています。











 
【プロフィール】
山鳥 剛裕(やまどり たかひろ)
1970年生まれ 岐阜県吉城郡神岡町(現 飛騨市)
1992年3月 東京理科大学山口短期大学 卒業
1992年4月 住友電気工業株式会社 入社
2003年8月 ヒエン電工株式会社 入社
2008年6月 取締役常務執行役員 就任
2012年6月より現職


■ヒエン電工株式会社(https://www.hien.co.jp/

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