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【マリンネット探訪 第37回】
現場で磨かれた沖修理77年の実績
「技術力」を強みに活躍の場を広げていく
< 第551回>2024年08月26日掲載 


株式会社TOWATECHNO
代表取締役
髙口 明浩 氏













――船舶用電動機や各種電気設備のメンテナンスなど、電動機のトータルエンジニアリングを手掛ける株式会社TOWATECHNOの髙口 明浩社長です。TOWATECHNOの概要・特色について、ご紹介をお願いいたします。

 当社は1947年に東和電機工業所という名で祖父が創業しました。社名の由来は、戦後という時代背景から、東洋の平和を願って命名したと聞いています。創業時は船舶向けモーターコイルの巻き替えを専門としており、お客様はお得意先1社だけでした。当時は電気製品の品質も悪く、入港した船舶1隻につき10~20台のモーターの巻き替えが必要な時代でした。先代(父)の頃は、祖父と職人さん含めて3名体制で、モーターを回す制御盤や始動器盤など訪船してトラブル対応を行っていましたが、好景気にも助けられ、お客様は10社程度まで増えていました。しかし私が入社した2002年当時は全く仕事が無く、3カ月間開店休業状態でした。その後、電気製品の修理以外にも機械やエンジンのメンテナンスも対応するようになり、最近ではITシステムの設置工事など、当社としてできることを少しずつ増やしてきました。2021年には社名を現在の「TOWATECHNO」に変更し、その年から新卒採用も始め、現在従業員数は21名です。若手従業員が多いので技術の継承が課題ではありますが、電気・機械を問わず知識と経験を磨くため、社内で切磋琢磨しながら個々の能力を育てています。
 現在の主な業務内容は、創業当時から続く電動機のメンテナンスと訪船作業(沖修理)です。この10年で沖修理のニーズは拡大していますが、創業当時から続く電動機のメンテナンスで培った技術力を活かし、更なる活躍の場を広げていきたいと考えています。



――社名を変更した理由は?

 2021年に初めて新卒採用に挑戦した時、合同説明会の会場で前社名(東和電機)のままでは学生が全く興味を示さないと感じました。電気以外の仕事が増えていたこともあり、3か月後には現在の社名に変更し、若手人材にも響くよう、ブランドイメージの刷新を行いました。最近では海外のお客様とのお取引も少しずつ増えており、国内外問わず認知度を上げていきたいという思いもあります。海外展開に関しては、日本製品を搭載していない船が寄港した際に当社が修理対応できるようになりたいと考えています。ちなみに今年9月にドイツ(ハンブルク)で開催される「SMM 2024」にもパネル出展する予定です。


――電動機の修理会社として創業し、現在では船舶向けITシステムの設置など、新たな事業も展開されています。海運業界においてDX(デジタルトランスフォーメーション)化などの動きが加速する状況において、近年の顧客のニーズの変化やそれに伴う御社の変化についてお聞かせいただけますでしょうか。

 当社は創業当時から船舶用電動機の修理をメインに、電気屋としてお客様の要望に応えてきました。昨今のDXや自動化に対してはアンテナを張っているもののまだ勉強中です。インターネットや排ガス規制、エンジン技術等、船上の技術は陸上より数年遅れて新しい波が来る傾向にありますが、最近はその変化のスピードが速まっている印象です。当社は創業時から現場でいわゆる“泥臭い”仕事をしながら事業を少しずつ広げてきましたので、これからも大手エンジニアリング会社が手掛ける技術とは棲み分けながら、我々が貢献できることに対し丁寧に対応していきたいと考えています。最近では船上のITシステムの設置工事なども請け負っていますが、将来的にITに付随するモノづくりなど、IT周りの仕事も対応できる会社になりたいと考えています。


――各種トラブル対応やメンテナンス作業等の訪船作業に関して、技術力だけでなく短納期のサービス提供を強みに事業を展開されています。社内の運営体制における強みについてお聞かせください。

 『短納期』を強みにしていることには理由があります。私が入社した約16年前、当時社員は私と父を含めて3人でした。競合他社は大手ばかりでしたので、大手さんが対応できないような短納期の仕事を拾いながら少しずつ事業を拡大してきました。「TOWATECHNOが断ったら、他ではもうやってもらえない。」いつしかそのような声が聞こえるようにもなり、その継続が現在の当社の強みに繋がっています。『短納期』は得意で始めたことではありませんが、「1日は24時間あるのだから、どうにかできる!」という精神で苦しい時期を乗り越えてきました。働き方改革がうたわれる現代においては、難しい話かもしれませんが、お客様の要望に応えつつ、今の時代に合わせた働き方について、試行錯誤している状況です。また、時間の制約がある中でいかに仕事の楽しさを見出していくかという点も今後の課題であると考えています。


――技術の伝承や人材育成において大切にしていることをお聞かせください。

 現在従業員は21名ですが、人材育成にはかなりの時間とお金をかけて取り組んでいます。技術に関してはOJTを通して何より実践することを大切にしています。従業員数も増えてきましたので、マニュアル化や講習を行うなど社内のシステム構築も進めています。また技術力だけでなく、人間力を向上させる研修には特に力を入れています。現代の若者は大変恵まれた時代に育っている一方、大きな夢や目標を持つ人が少ないと感じますので、大きな夢を持つことや夢を持つ力を育む研修を行っています。


――これまでのご経歴についてご紹介をお願いします。

 3人兄弟の次男として神戸で育ちましたが、生まれは母方の実家がある徳島県海部郡牟岐町です。小学校から高校までは神戸で過ごし、大学は甲南大学へ進学しました。大学生の頃はアルバイトに夢中で、授業そっちのけで働いていたので、親の扶養から外れる事態にもなりました。結局大学では3年間で9単位しか取ることができず、このままでは卒業はできないと考えて親に退学したいと申し出ました。大学を3年半で中退した後は、叔父が経営する電気工事会社に就職させてもらい大阪で働きました。入社から3年ほど経った時、父から電話があり、実家に戻ってこないかと言われました。父の背中を見て育ったこともあり、社長への憧れはありましたが、兄が継ぐべきと考えていたので、家業を継ぐことは考えていませんでした。しかし叔父に相談したところ、実家に帰るべきだと一喝され、直ぐに帰ることになりました。


――実家に戻られて、まず何から取り組まれましたか?

 実家に戻り、入社から3ヶ月間は全く仕事がない状況でした。創業当時から働いていた職人さんが1人居たのですが、その方が「開店休業やな・・。」と呟きながらゴムハンマーでご自身の膝を叩いていていた姿が今でも目に焼き付いています。その状況に危機感を抱いた私は、決算書を見せて欲しいと父に申し出ました。しかしその中身は酷いものでした。とにかく売上を増やす方法を考え、当社の船舶向けモーターの技術を活かせる場所を陸側に向けて、仕事を探し始めました。Yahoo!地図を使って関西の各県から和歌山県、鳥取県、高知県、徳島県を中心に工場の敷地面積が大きい工場を約400件リストアップし、片っ端から電話を掛けました。そのうち4件からお仕事をいただきましたが、安価な受注を強いられ、成功とは言い難い状況でした。ちょうどその当時「ランチェスター戦略」に関する書籍を読んでいたこともあり、自分たちが注力すべきフィールドは陸上ではないと考え、営業のターゲットを船舶向けのみにシフトしました。
 舶用品メーカーさんをはじめ、業界各社にアプローチしましたが、受注にこぎつけるまで大変苦労しました。その後、SOLAS条約改正に伴う特需もあってお仕事を少しずついただけるようになり、関係者の皆さまにも助けていただきながら徐々にお客様が増え、売上も伸ばすことができました。おかげさまで従業員数も増え、出来ることを増やしながら、現在も成長を続けている状況です。



――人生の転機についてお聞かせください。

 転機は3回ありました。1つ目は、当時社長を務めていた父がくも膜下出血で倒れ、2週間入院した時です。父の体調への不安だけでなく、社長不在の状況に対する焦りを抱えながら、とにかく自分1人で何とかしなくてはいけない状況でしたので、必死に目の前の事に向き合いました。その後父は後遺症もなく退院することができましたが、忘れられない経験です。
 2つ目は、社長就任を決意した時です。このきっかけとなった出来事があるのですが、当時1件の受注単価が年間売り上げの1/3という大型案件を受注し、3カ月かけて修理・納品したのですが、修理方法が誤っていたためやり直すことになりました。お客様からは支払ったお金を返して欲しいと言われましたが、部材調達等で手元には十分な資金が残っておらず、父は「返せない。」と言いました。しかしそれを聞いた私は、このままでは事業の継続ができないと考え、責任を持って返済することを決意し、同時に父に社長交替を申し出ました。お客様には分割して返済させてもらえないかと謝罪を重ね、結果的に無事完済することができました。社長就任によって自らに責任を課し、社長としての新たなステージを迎えるきっかけとなった出来事です。
 3つ目は、社長就任から数年後、トヨタ系企業の試験設備の直流モーターの整備を請け負った時の出来事です。直流モーターは父の得意分野ということもありお受けしたのですが、仕組みも材料も非常に特殊且つ、その時代では入手困難なものばかりでした。父もお手上げで、分解までしたものの断らざるを得ない状況になっていました。当たり前ですが、お客様からは「今更断られても困る。」と大変なお叱りをいただき、父にも相談しましたが、対応策は出てきませんでした。それでも私は何とかしなくてはという一心で、日本国内の関係各所に電話をかけ、怒られながら、そして嫌われながらもやり方を教えてもらい、当初の納期6カ月から3ヶ月遅れで何とか形にすることができました。できない理由を探すのでなく、とにかくできることをやるしかないのだと、この経験を通して自信も付けることができました。



――「座右の銘」についてご紹介をお願いいたします。

 「ポストが赤いのは社長の責任」という言葉です。経営者仲間から聞いた言葉ですが、社内の様々なトラブルは全て社長に責任があるということです。社長の教祖と言われた経営コンサルタントの故 一倉定(いちくらさだむ)氏の言葉ですが、自分の知らないところで起きた外部環境の変化や社員の行動の全てが社長の責任である、そのくらい強い責任が社長に求められていることを表すこの言葉をいつも胸に刻んでいます。


――最近感動したできごと、または夢や目標について教えてください。

 先日新入社員研修で鹿児島県の知覧に行きましたが、この場所は何度行っても様々なことを考えさせられる場所であり、心が動く場所です。毎年研修で訪れていますが、当時の特攻隊員たちに思いを馳せながら、今ここに生きていることの大切さを感じる場所でもあります。
 夢は世界中にTOWATECHNOのサービス網を持つことです。そしていつか修繕ドックになりたいと思っています。夢は公言すると叶えることができると思いますので、実現に向けて行動し続けたいです。




――思い出に残っている「一皿」についてお聞かせください。

 和菓子が大好きで、特におはぎが大好物です。3人兄弟の次男として育ちましたが、子供の頃家で3個入りのおはぎを見つけると、兄弟に見つかる前に全部1人でたいらげ、空の容器はゴミ箱の底にそっと隠していました。(笑)
 地元でおススメのお店は、山陽明石駅近くの「居酒屋漁太」です。地元明石の海の幸を堪能できるお店で、何を食べても美味しいです。おかみさんの気立てもよく、いつも常連さんでいっぱいのお店でおススメです。ちなみにこのお店は、当社の新卒採用の最終面接の場所として必ず使う場所です。
 B級グルメでは、新開地にある「お好み焼き 鉄板焼 じゅわっち」もおススメです。店主は日本料理の料亭出身の方で、鉄板焼きだけでなく、一品料理や魚料理なども大変美味しいです。





――心に残る「絶景」について教えてください。

 地元六甲山から眺める夜景も好きですが、東京都心の首都高速を車で走っている時に目に飛び込んでくるビル群や、羽田空港に着陸する時に窓から見える都会の風景にはいつも刺激を受けています。都会のビル群を見ると、もっと頑張ろう!という気持ちが自然と湧いてきます。




 
【プロフィール】
髙口 明浩(たかぐち あきひろ)
1976年生まれ 徳島県海部郡牟岐町
2001年11月 株式会社ネット 入社
2006年4月   株式会社東和電機(現:株式会社TOWATECHNO) 入社
2008年8月   代表取締役 就任


■株式会社TOWATECHNO(https://www.towatechno.com/

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