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【マリンネット探訪 第39回】
海上安全のエキスパート
何事も“侮らない 焦らない 諦めない”粘り強く挑戦し続ける
< 第553回>2024年10月15日掲載 


株式会社横浜通商
代表取締役社長
大津 隆一 氏













――船舶の安全設備の整備・点検を担う株式会社横浜通商様の大津 隆一社長です。横浜通商の概要・特色について、ご紹介をお願いいたします。

 当社は1971年、新日本港運株式会社の船舶検査部として横浜市中区かもめ町で救命いかだの販売および検査業務を開始しました。1973年(昭和48年)には新日本港運から船舶検査部が分離独立し、有限会社横浜通商が設立されました。1982年に株式会社に組織変更し、業務の多角化を図りましたが、結果として失敗し、倒産の危機に直面しました。その後、1991年に富士貿易グループの傘下となり、本業である船舶検査に専念することで業績が改善しました。富士貿易グループには、従来から船に必要な物資を調達する部門がありましたが、船の運航サポート事業へと業態を拡大する中で、当社をグループに迎え入れ、機械部品やエンジニアリングサービスの拡充を図りました。グループの一員となった当社は、それ以来、一貫して船舶の安全・救命設備の販売、整備、点検を主業務として発展して参りました。富士貿易グループのネットワークを駆使し、メーカー系ではなく独立系の整備、点検専門会社として、国内外の船主様にサービスを提供しています。おかげさまで昨年(2023年)5月には、創立50周年を迎えました。


――船舶の安全を支える御社サービスの「強み」についてお聞かせください。

 独立系の検査専門会社であるため、特定のメーカーに依存することがない点です。業界内で様々な棲み分けはありますが、安全や人命に関わる分野であるため、国土交通省の認定を受けた事業所でなければ対応できません。そのため一定の規制はありますが、同時に他業種からの参入は難しく、ある意味保護されている業種とも言えます。当社はライフラフトの整備・点検を主力業務とし、様々な種類の消火器や消防設備、救命設備、無線設備など、多岐にわたる製品を取り扱い、海上の安全に貢献しています。


――横浜以外にも拠点を設けていますよね。

 国内では神戸(兵庫県)に支店と福山(広島県)に出張所を設けています。かつては1県1シップチャンドラーという暗黙のルールがあり、そこで安全設備の整備・点検も行っていましたが、時代と共に形態が変わってきました。神戸や福山は広範囲にわたる地域にアクセスできる立地条件のため、依頼があればすぐに駆け付けることができます。また、PCCやコンテナ船の場合、停泊時間が非常に短いため、整備の時間を短縮する必要があります。当社では約10年前からレンタルという形で、整備済みのものを停泊船に提供するサービスを行い、短時間停泊でも対応可能な体制を整えていいます。また、2007年(平成19年)には、邦船社様から「上海にて"日本クオリティのサービス"を提供してほしい」とのご要望を受け、上海通商を設立しました。


――各地に整備士を配置しているとのことですが、整備や点検の研修などは自社で行っているのですか。

 整備や点検をするためにはライセンスが必要です。「一般社団法人日本船舶品質管理協会」が実施する整備士の技量講習会及び試験があり、通常入社3年目で試験を受けてライセンスを取得しています。また、メーカーごとに型式別のライセンスがあり、それぞれのメーカーの製品を実際に扱い、製品を十分に理解した上でライセンスを取得する仕組みとなっています。


――入社する方は船舶関係の方が多いのでしょうか。

 いえ、船舶とは全く関係のない方がほとんどです。現在の検査部長は自動車業界出身です。最も若手の社員は海洋系の高校出身ですが、無線科を専攻していたため、GMDSS(Global Maritime Distress and Safety System)*が専門であり、整備については未経験でした。
*「海上遭難安全システム」:衛星通信技術やデジタル通信技術を利用した遭難信号伝達のための通信システム。



――昨今の環境規制強化やDX(デジタルトランスフォーメーション)化などの動きが加速する状況において、顧客のニーズや働き方の変化について、またそのような変化にどのように対応されているのか、お聞かせください。

 自社の環境負荷低減の取り組みとしては、火薬の廃棄に気を配ったり、節電対策やごみの削減など、当社として出来る範囲のことに取り組んでいます。
 DX化に関しては、これまで長年使用してきたシステムを見直し、来年3月末にシステムの一元化を予定しています。社内データの一括管理により、経理と営業の二重入力を防ぐことができるほか、検査証書の発行やお客様への年次検査の通知などにおいても利便性の向上を期待できます。もちろん、人の手に委ねるべき部分は人が担当しますが、人材確保が難しい時代においては、できる限り労力を軽減し、時代に適応することを考えています。



――人材確保の課題について具体的な施策はありますか?また、この業界で会社を存続させていくための戦略についてお聞かせください。

 例えばM0(機関室無人運転)技術の導入によって、現在の24人ほどの乗船人数が将来的には5~6人に減少する可能性があります。乗船人数が減れば、ライフラフトの数が減少する、もしくは定員が減ることでライフラフトのサイズが小さくなるかもしれません。その一方で、新たに必要となる検査は増えるでしょう。安全設備についても、最近ではボートダビットの検査が増えており、LNG燃料船が主流になると、そのためのセーフティーバルブやガス抜きなどの点検が不可欠となります。このように、様々な要請やその変化に応じてサービスの幅を広げることが重要だと考えています。
 人材確保については、現在は工業高校の先生とのご縁があり、インターンシップや会社見学の機会を提供する代わりに、学生を紹介していただいいています。おかげさまで複数名が入社、または入社を予定しており、今後も若手人材確保には尽力したいと考えています。人材に関しては、外国人人材にも注目しています。現在ネパール出身の方が2名働いていますが、一生懸命仕事に取り組んでくれています。現状、外国人の方は補完的な役割で採用していますが、将来的にはこうした労働力に依存する可能性があると考えています。様々な形でネットワークを強化し、人材の確保に努めていきたいです。



――これまでのご経歴についてご紹介をお願いします。

 埼玉生まれ横浜育ちです。大学は神奈川大学に進学し、貿易学を専攻していました。大学卒業後に富士貿易に入社し、当時の機械部(神戸支店)に配属されました。その後サプライネットワーク事業部の営業担当として、東京事務所、神戸支店を経て、2012年3月に三愛富士株式会社(今治市)の常務取締役に任命されました。三愛富士では組織運営や経営について学び、約5年間を過ごしました。その後アメリカのFuji Trading (America) Inc.に代表取締役社長として出向し、約4年間勤務しました。帰国後は、富士貿易での勤務を経て、2021年から横浜通商の代表取締役に就任し、現在に至ります。



――人生の転機となる事柄についてお聞かせください。

 三愛富士への出向です。命ぜられた際には、先の見通しや無事に戻れるのかという不安がありました。三愛富士の立場を代弁しなければならない一方で、出向者として富士貿易の意見も通さなければならず、時には軋轢が生じることもありました。非常に困難な状況が続き、毎日のように辞めたいと思うほどでした。しかし、数年が経つにつれて、業務もスムーズに回るようになり、売り上げも着任当初の5億円程度から8億円程度まで拡大することができました。とにかく辛い時期でしたが、組織運営や会社の数字を分析しながらジョイントベンチャーの役員としてどのように成長できるかを常に考えていました。今振り返ると、当時のこれらの経験が現在の私に繋がっていると感じます。まさに登竜門だったと感じます。


――辛いことが多い日々の中で、なぜ諦めずに踏みとどまることができたのでしょうか。

 三愛富士に出向して約2年が経過した頃、次第に「ここでもやっていけるだろう。」という自信が芽生えてきました。社員たちも私を頼りにしてくれているという実感があり、その結果、辞めたいという気持ちよりも、私がしっかりとやり遂げなければならないという気持ちの方が強くなりました。その思いに至るまでの間は、当時の上司に対して「あなただけには負けたくない、もし辞めるなら見返してから辞めてやる。」という気持ちで努力していました。


――その中で、特に達成感を感じたことはありますか。

 私が三愛富士に出向した当初、社屋はプレハブの平屋建てで、隙間風が入るため夏は暑く、冬はとても寒かったです。しかしそのプレハブは、私が離任する少し前に新社屋へ建て替えられました。約5年5か月の赴任期間中に売上が順調に伸び、その成果が新社屋の建設に繋がったのだと考えると感慨深かったです。


――Fuji Trading (America) Inc.でのお話をお聞かせください。

 ヒューストンに移転する前は、ボルティモアに会社がありました。もともとアメリカ東海岸はストアサプライの供給地でしたが、会社の業績が長らく振るわなかったため、ボルティモアの会社を閉鎖し、ヒューストンと事業統合をすべく同社に赴きました。2017年から出向していましたが、後半はコロナ禍で2年間全く動くことができず、色々と苦労しました。その中で人員削減や会社の閉鎖、移転など様々な経験をしました。出向当初は、会社を立て直せるかもしれないという期待を抱きながら様々な試みをしましたが、結局うまくいかず、コロナの影響などもあって、最終的には閉鎖を決断せざるを得ませんでした。一度にこれほどの人員を解雇し、事務所移転を経験したのは、社内で私くらいしかいないのではないかと思っています。


――学生時代はどのような学生でしたか。進路を決めた理由はありますか。

 あまり目立つタイプの学生ではなかったです。趣味ではワンダーフォーゲルをやっていましたが、社会人になってからは全くやっていません。進路に関しては、高校生の頃に担任の先生が、「神大の貿易科はいいよ。」と言っていたことが心に残っており、海外で働くことへの憧れが芽生えていました。大学進学後は、ゼミ活動に明け暮れる毎日でした。とにかく行事が多く、合宿や皇居1周マラソンなど様々な行事があり、それに参加するための資金稼ぎとして、アルバイトにも一生懸命取り組んでいました。



――どのようなアルバイトをしていましたか?

 富士貿易でアルバイトをしていました(笑)。当時は市場開発部が立ち上がり、様々なことに挑戦していた時期でしたので、会社の中にアンテナショップを作り、土日のみ一般開放して商品を販売していました。お給料は日当7,000円となかなか良かったです。このほかに駐車場や工場、ファストフード店でのアルバイトも経験しましたが、富士貿易のアルバイトが一番長く続きました。


――その頃から富士貿易で働くことに興味があったのですか?

 最初は深く考えていませんでしたが、輸入商品を取り扱う面白さを感じ、海外で働くことを意識するようになりました。それで、富士貿易に応募しようと決意しました。入社前は、輸入に関わる業務ができるのではないかと期待していましたが、入社して36年、実際には一度も輸入業に携わることなく、ずっと船舶関係の仕事を続けてきました。入社前の希望とは異なりましたが、今となっては船舶関係で働くことができて良かったと感じています。


――「座右の銘」についてご紹介をお願いいたします。

 「何事も 侮らず 焦らず 諦めず」です。この言葉は、横浜の小学校で当時校長をされていた森先生が、生徒一人ひとりに色紙に書いて贈ってくださった言葉です。この言葉をいただいてから今日に至るまで、常に心に留めている言葉です。物事を真摯に、謙虚に受け止め、決して軽んじることなく、“急いては事を仕損じる”ではありませんが、急がず落ち着いて考え最後まで成し遂げること、そして諦めないことがこの言葉の意味だと理解しています。最近では、入社式で新入社員にこの言葉を必ず贈るようにしており、私自身もこのようでありたいと常に思っています。



――今後の夢や目標について教えてください。

 社員一人ひとりが、入社から定年退職まで安心して誇りをもって働ける強い会社に発展させることが、私の夢であり目標でもあります。当社社員は50名弱(上海含む)で、その家族も併せると約200名です。当社にはその社員と家族の生活を支える責任があります。そのため、会社の発展に向けた対応にも一層慎重な判断が求められます。
 会社の究極の務めは持続性だと考えていますが、「現状維持は退化と一緒であり、必ず成長しなくてはいけない。」といつも社員に伝えています。給料を引き上げるためには、売り上げや利益を向上させる必要があり、継続的な成長が最も重要です。成長を続けることで、社員が会社に対して誇りを持ち、長く働き続けられる環境を作ることができると考えています。歴代の社長が築いたものを守りながらも、現状からの成長を目指しています。具体的には利益を現在の1.5倍、国内の社員数を50名以上に拡大させる必要があります。これを実現できなければ、今後の顧客対応や会社の若返りが難しくなると考えています。
 また、2023年4月から新たに中期経営計画を導入しました。計画策定にあたり管理職が知恵を出し合い、会社の有るべき姿や進むべき方向を模索し、外部講師の指導も受けながら進めています。今年はその計画の2年目に入り、PDCAサイクルを継続して実施しています。第1次計画策定時には、10年後の売上20億円達成という大きな目標を掲げました。私の任期中にそれを達成し、次の世代に安心してバトンを渡せるよう奮闘しています。



――思い出に残っている「一皿」についてお聞かせください。

 2019年にペルー・リマ空港のラマダ コスタ デル ソル リマ エアポートホテルのダイニングで食べたセビーチェです。リマは埃っぽい街ですが、カヤオという港がすぐ近くにあり、海上物流も発達しているので、新鮮な魚介類が豊富に入ってきます。パプリカや玉ねぎ、フライした魚のほかにもエビなどの新鮮な魚介類がたっぷり入っていて、まさに絶品でした。当時食べた味が忘れられず、再訪した際に同じものを注文したのですが、当時とは異なるものが出てきてしまい、とてもショックを受けました。


――心に残る「絶景」について教えてください。

 アメリカでヘリコプターから眺めた自由の女神像です。1989年に大学の卒業旅行で友人と2週間のアメリカ横断をし、記念にと奮発してヘリコプターの遊覧飛行を体験しました。初めての海外旅行で、それまでテレビや写真でしか見たことのなかった景色を間近に眺めることが出来たのは、非常に感動的でした。当時はワールドトレードセンターのツインタワーも健在で、今となっては貴重な思い出です。




 
【プロフィール】
大津 隆一(おおつ りゅういち)
1966年生まれ 埼玉県出身
1989年3月     神奈川大学 経済学部貿易学科 卒
1989年4月     富士貿易株式会社 入社 神戸支社 機械部(当時)配属
2002年10月   サプライネットワーク事業部Overseas Network 東京事務所 営業部 配属
2003年5月     同マネージャー(課長) 就任
2007年10月   Overseas Network 神戸支社 営業2課 マネージャー 就任  
2012年3月     三愛富士株式会社(今治市) 常務取締役 就任
2017年8月     Fuji Trading (America) Inc.  代表取締役社長 就任
2021年6月     富士貿易株式会社 本社人事総務付
2021年6月     株式会社横浜通商 代表取締役社長 就任


■株式会社横浜通商(https://www.yokotsu.co.jp/

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