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【マリンネット探訪 第44回】
世界が認める、品質と技術力の「ONOZOブランド」
明鏡止水の心で次善を求め、最善を尽くす
<
第558回
>2025年01月20日掲載
尾道造船株式会社
代表取締役社長
中部 隆 氏
――品質と技術力の「ONOZOブランド」の船づくり、及び修繕を手掛ける尾道造船株式会社様の中部 隆社長です。尾道造船の概要・特色について、ご紹介をお願いいたします。
当社は、1943年(昭和18年)に濱根岸太郎氏が創業し、2023年に創業80周年を迎えました。主力のMR型プロダクト船のほか、近年は4万重量トン型(40型)バルカーの連続建造を進めてきました。また、修繕事業においては、内航船・外航船問わず対応しています。特に造船事業に関しては、長年に亘る実績に裏打ちされた技術力に加え、お客様の要求に真摯に対応する姿勢が信頼と実績に繋がり、高いリピート率を実現しています。
造船事業は継続が最も重要だと考えていますが、大きな課題として事故が挙げられます。私が社長に就任した2009年に死亡事故が発生し、その後の1年の間で大きな災害が3度続きました。もしもう1度事故が発生していたら、操業停止の危機に直面していた可能性があります。事故の原因は、設備の不備や危険行為、社員の安全に対する意識の欠如などでした。船づくりが命がけであった時代があったことは事実ですが、そのような状況が許されるものではありません。事故を契機に安全第一への意識を一層強化し、建造工程の安全性を見直しました。工場内の整理整頓を徹底するとともに、安全対策に時間と資金を投入しました。その結果、社員の意識が向上し、災害件数も大幅に減少しました。しかし、事故が減少したからといって安心はできません。大小問わず、気になる災害が起こると、現場に足を運び、実際に確認するようにしています。日々現場で働いている人間では、気づきにくいこともありますので、現場以外の人間が新たな視点で問題を発見することもあります。こうした取り組みを通じて、現在では良い循環が生まれ、会社全体に安全意識が浸透してきたと感じます。
――多くのリピーターに支持されている理由について、どのようにお考えですか?
当社は、船そのものに高い評価をいただくこともありますが、お客様との信頼関係も非常に重要視しています。特に大切にしているのは、顔を合わせ、直接会話を交わすことで築かれる信頼関係です。そのため、当社の規模に見合った適切な数のお客様とのお取引を意識しています。お客様が何を求めているのか、どのような要望があるのかを直接聞きながら仕事を進めることで、良好な関係を築くことができています。このアプローチがリピーターの獲得に繋がっているのではないかと考えています。
――お客さまのリクエストには、どのように対応していますか?
当社では、お客様の細かな要件にも柔軟に対応することを心掛けています。特にMR型プロダクト船においては、同じ船型であっても仕様が異なるケースが多々あります。例えば発電機の容量やバラストポンプの仕様、パイプ口径などです。そのため、中古船市場では船主さん同士の間で「十分な検船を行い、仕様を確認する必要がある」というアドバイスが交わされているようです。
現場としては、同じものを作る方が効率的かもしれません。しかし、「技術的に本当に不可能なのか、それとも手間がかかるからやりたくないのか」という点には常に疑問を持つべきだと考えています。生産性や効率性を優先するあまり、スタッフが思考停止に陥ることも避けなければなりません。
「本当にできないのか?」という問いを大切にし、技術的な制約に対して即座に「NG」と判断するのではなく、対話を重ねて解決策を模索する姿勢が重要です。お客様は毎回異なり、オペレーションの条件もそれぞれ異なるため、それに応じた柔軟な対応が求められます。採算が悪化するリスクもあるため、一定の線引きが必要ですが、お客様の要望の背景を理解し、コミュニケーションを通じて具体的なニーズを把握することが重要です。そうした中で、小さな変化も前向きに捉え、一歩ずつ改善を進めることが、より良い商品を生み出すことや、お客様との信頼関係の構築に繋がると考えています。
――2024年初めに、御社として5年ぶりの建造となるMR型プロダクト船を受注されました。現在の受注状況と建造体制、また、今後の新造船マーケットの見通しをお聞かせいただけますでしょうか。
受注残については、2027年の船台に加え、2028年半ばも徐々に埋まりつつあります。
2018年から2019年、さらにコロナ禍を経た2021年春頃まで厳しい市況が続きました。しかしその後、ドライバルクマーケットが上昇に転じたことで、40型バルカーの受注が増加しました。当社ではまず、財務体質の改善を最優先課題とし、船型開発や新燃料船への挑戦を急ぐことなく、円安や船価上昇といった追い風を活かして収益確保に注力しました。
そして2023年末頃からMR型プロダクト船の船価市況が回復基調に入ったことを受け、ようやく受注に踏み切ることができました。また、当社の主力商品であるMR型プロダクト船は、5年ぶりの建造となりますが、5年以上ブランクが空くと、現場が世代交代を迎えることもあり、経験者が在籍している間に建造を再開したいという強い思いもありました。
今後のマーケットの見通しについては、韓国や中国も相当数の受注を確保しているものの、2030年頃にはリーマン・ショック前後に竣工した船のリプレース需要が増加し、船腹の供給不足が懸念されると見ています。鋼材価格や為替の影響など、採算面を考慮すると、40型バルカーとMR型プロダクト船のどちらを優先すべきかという議論もありますが、状況を注視しながら受注を進めていく方針です。
――LNG二元燃料対応の4万重量トン型バルカーを開発し、2024年5月に、日本海事協会から設計基本承認(AIP)を取得されました。また、グリーンイノベーション(GI)基金事業の実証船として、水素燃料の多目的船の建造を進められています。次世代燃料に対する方針や今後の展開についてお聞かせいただけますでしょうか。
LNG二元燃料船のAIP取得に関して、実際の建造計画や具体的な引き合いは無いものの、当社としては今後の可能性に備え、LNG二元燃料船に関する知識を蓄えることが重要だと考え取り組みました。
水素燃料船に関しては、目下推進中です。このまま本格的な建造に至るかに関しては、慎重な見極めが必要だと考えています。その主な理由は水素の価格です。当社が関与するプロジェクトに限らず、水素をはじめとするグリーン燃料は、化石燃料の価格が急騰すれば生産が加速する可能性があります。しかし、現在は米国のシェールオイル増産やカタールのLNG増産が進んでおり、原油価格も70ドル付近で推移している状況です。化石燃料の価格が大幅に上昇しない限り、資本主義経済の枠組みの中で次世代燃料を採算に乗せることは、現時点では厳しいと個人的に考えています。
――浮体式原子力発電の開発を手掛ける英国コア・パワーに出資されています。将来に向けてどのようなシナジーを期待されているかお聞かせください。
出資を決めた当初、私自身の中で、新燃料に関する意見や考えが、現在ほど体系的に整理されていませんでした。しかし、新燃料が自然界には存在しない人工生成物である点に違和感を覚え、それを燃料として利用するには商業的に高いハードルが伴うと感じました。二酸化炭素の削減は避けられない課題ではありますが、原子力は人類が利用可能なエネルギー源の中で、発電プロセスにおいてCO2を直接排出しない数少ない方法の一つです。そのため、将来的には原子力に頼らざるを得ない時代が訪れるのではないかと考えています。
コア・パワーが推進する非加圧の溶融塩高速炉(MCFR)の技術は、従来の加圧水型原子炉(PWR)と異なり、安全性の面でいくつかの利点があります。その一つは、燃料が溶融塩の形で炉の中に収まり、万が一事故が発生した場合でも、燃料が炉外に漏れるリスクが低いことです。また、モジュール化の進展が予想以上に早いことから、近い将来、動力源として船舶に搭載できる可能性も考えられます。陸上での原子力発電設備の導入には多くの課題がありますが、浮体式であれば津波などの自然災害の心配も少なく、安全性が確認されれば、海上での利用が現実味を帯びてきます。このような技術が実現すれば、日本国内での導入が現実となる時代が訪れるかもしれません。
最近では、生成AI(人工知能)の急速な普及により、データセンターの消費電力が急増しています。しかし、既存の電源や送電網ではその需要を満たすことに限界があります。将来的には送電網に依存しない電力供給の運用が不可欠になると考えています。そのため、マイクログリッドや小型原子炉をデータセンターと連携させる新しい電力供給システムが重要な選択肢になると考えています。
また、若手人材の確保という点で、コア・パワーへの出資が採用活動にも貢献し、当社の将来のロードマップの一部になり得ると考えています。新燃料の開発にとどまらず、新たな視点でのビジネス展開が求められる中、このような取り組みが当社の成長にも繋がると信じています。
――造船業の人手不足に対する御社としての取り組みについてお聞かせください。
私が2009年に社長に就任した当時、当社の従業員数は500人を超えていましたが、現在では350人程度まで減少しています。2016年から2017年頃は450人程度で、その後、退職などの自然減もあり、400人を若干下回る人数で踏み止まることを望んでいました。しかし、結果的には想定より40人ほど多く減少してしまいました。特に2018年から2019年にかけては、業界全体が先行き不透明な状況であり、離職者も多く発生しました。当時は「受注できない」状況が続き、将来に対する不安感が強かったうえ、コロナ禍が追い打ちをかけたことが主な要因です。こうした背景を考慮すれば、避けられなかった結果とも言えます。
その後、ありがたいことに財務状況も改善し、2023年には全員の手取りを3万円引き上げることができました。2024年はさらに1万円、来年も1万円の増額を予定しており、合計で5万円のベースアップを目指しています。加えて、社内施設の建て替えも進行中で、点在している施設を集約し、従業員向けのレストランを新設するなど、協力会社を含めた待遇改善に取り組む予定です。
――ベースアップによる効果は高そうですね。
給与をどの程度引き上げるかについては、慎重に見極める必要がありますが、給与が良ければ優れた人材が集まると確信しています。昨今の円安による収益の増加は必ずしも経営努力によるものではないので、その利益は従業員に還元したいと考えています。協力会社にも特別手当を支給することができましたが、この取り組みには感謝の声をいただき、私自身も大変嬉しかったです。
給与水準を引き上げなければ、同業他社だけでなく、異業種からも魅力的な会社にはなれないと感じています。最近では、台湾のTSMCの進出により、九州地域での人材獲得競争が激化していますが、当社の給与水準としては初任給30万円を目指していきたいです。目指すべきは、必要な人材の確保です。単に頭数を揃えるのではなく、優秀な人材を引き寄せるためには、給与の向上だけでなく、将来を見据えた明確なロードマップも不可欠です。この会社で働くことに魅力を感じてもらい、選ばれる会社でありたいと考えています。
――外国人人材の活用に対する方針は?
現在、当社では約50名のフィリピン人従業員が技能実習制度を利用して働いています。先日、当社初の日本語及び技能試験の合格者が誕生しました。日本への永住資格を獲得し、正社員としての雇用も決まりました。この実績は、他のフィリピン人従業員のモチベーション向上にも大きく寄与しています。
今後も一定数の外国人人材は必要であり、やる気のある方を選抜して迎え入れる方針です。さらに、彼らが家族やパートナーと共に尾道で安心して生活できるよう、寮や住居の整備も進める予定です。また、彼らの口コミや紹介などを通じて新たな人材が集まることも期待しており、そのためには待遇改善が不可欠です。2027年からは育成就労制度が開始され、転職も可能となります。これを踏まえた待遇整備が、ますます重要になってくると考えています。
フィリピン人従業員の成果は、日本人従業員にとっても良い刺激となっており、今後も日本人、外国人問わず、やる気のある方々が集まる仕組みや制度作りを進めていきたいです。
――これまでのご経歴についてご紹介をお願いします。
出身は神戸ですが、父の仕事(大洋産業:現・マルハニチロ)の都合で、3歳頃まで下関で過ごし、その後東京に移りました。実家は原宿にあり、その場所柄の影響か、子供の頃は修学旅行生のカツアゲの被害に遭うことも多々ありました(苦笑)。
大学卒業後は、父の勧めでアメリカのボストンに約2年間留学しました。当時は携帯電話も普及しておらず、身の回りの全てのことを自分1人で対応する必要があったため、非常に良い経験になりました。また、車が好きだったこともあり、アメリカ大陸縦断を2回、横断を1回経験しました。ボストンとロサンゼルスの横断では、大学の助教授の先生との間で、1週間以内に往復するという約束を交わしました。先生からは無理だと言われましたが、6日と8時間という結果で、無事に約束を果たすことができました。その証として、映画『プリティウーマン』の舞台になったホテル「リージェント・ビバリー・ウィルシャー(当時)」前で写真を撮って持ち帰りました。1日1,600kmペースで6日間、給油回数をいかにして少なくするかを考え、ひたすら走り続けました。道中、ガス欠の危機や迫力あるトラックドライバー達に圧倒される場面もあり、身の危険を感じることもありましたが、アリゾナからロサンゼルスへ向かう途中の夜景が特に印象的で、今でも心に残っています。
帰国後は、ご縁あって富士ゼロックスに入社しました。入社1年目で営業に配属となり、売上No.1を達成して新人賞を受賞しました。当時はプロゴルファーを目指す夢を抱いていましたが、「仕事ができないからプロゴルファーを選んだ」と思われたくなかったため、まずは仕事で自分の力を証明することに全力を注ぎました。
――ゴルフを始めたのはいつですか?
本格的にゴルフを始めたのは、大学のゴルフ部に入ってからです。アマチュアゴルファーだった父からは「ゴルフはお金がかかるからやめた方が良い」と反対されていましたが、本音は、親子で比較されることを心配していたのだと思います。スポーツの世界では、親を超える選手になることは決して簡単ではありません。そのことを父もよく理解していたのでしょう。
子供の頃は、父がゴルフで有名だということを特に意識しておらず、ただ「ゴルフが上手いのだろうな」という程度の認識でした。大学でゴルフ部に入る際も、「父がやっているのだから、自分も同じくらいできるかもしれない」という甘い気持ちで始めました。しかし、実際にゴルフに取り組むうちに、父の偉大さに改めて気づかされ、そのギャップに苦しむ日々が続きました。結果として、父が望んでいなかった状況になっていたのです。父がアメリカ留学を勧めたのは、ゴルフから一度距離を置き、自分を冷静に見つめ直す時間を与えたかったのだと思います。
――アメリカ留学を経て、社会人1年目で新人賞受賞。その後プロゴルファーへの夢は?
社会人1年目で新人賞を受賞し、仕事で結果を出すことができたので、そのまま会社を辞めてプロゴルファーの道へ進むつもりでした。しかし、父から「上手いことと強いことは全く別物だ」と言われました。私の同期には、プロゴルファーの丸山茂樹氏や藤田寛之氏、横田真一氏がいます。父からは、「彼らがどれだけ苦労してプロになっているのかということを、全く分かっていない。生活をかけて必死に努力を重ね、凄まじい量の練習をしている彼らには、たとえ2倍の技術を持ってしても到底勝てるわけがない」と言われました。その言葉は非常に悔しかったです。
そして、当時の富士ゼロックス社長から、「アマチュアとして競技に参加しながら、会社員としてもう少し頑張ってみては?」という言葉をいただき、会社にとどまることにしました。
その後、2000年に日本アマチュアゴルフ選手権で和田寛氏が優勝し、その祝賀会に参加した際、和田氏から「競技に出てみないか?勝負の世界に挑戦して、どこまでいけるか試してみれば良い」と言われました。当時私は競技に出ていませんでしたが、それをきっかけに、試合に出場し始めました。徐々に試合で勝てるようになりましたが、日本チャンピオンというタイトルは簡単ではなかったです。
父は生涯で24回(3度の不出場を含めて27年間)の試合に出場し、そのうち6回優勝しています。つまり、27年間試合で戦える状態を維持しなければならないのです。しかも、4年に一度くらいのペースで優勝するということは、それ以外の年も常に優勝圏内に居続ける必要があり、非常に大変なことです。私自身も2000年から24回(24年間)出場していますが、最近では同世代もかなり少なくなってきました。2024年8月に「横浜ミナト Championship」に出場した際、丸山プロの凄まじい努力を目の当たりにしましたが、真夏の炎天下で、連日試合とトレーニングを重ねる姿は、とても真似できないと思いました。今思うと、プロゴルファーを目指さなくて良かったと思っています(苦笑)。
私自身、今後は、日本ミッドアマチュアゴルフ選手権、または日本シニアゴルフ選手権で日本一を目指して頑張りたいです。
――尾道造船への入社の経緯は?
前社長の濱根氏は私の叔父にあたります。それまで私が経験していた業界とは全く異なるため、造船業を継ぐことへの不安はゼロではありませんでした。しかし、当時若かったこともあり、「やれないことはないだろう」と考えて入社を決意しました。2001年10月、尾道造船に東京副支店長として入社しましたが、その年は結婚や父の他界など、私自身にとって節目となる出来事が重なった年でもありました。
――入社後、ゴルフは継続したのですか?
競技は主に平日に行われるため、入社3年目くらいまでは年に1~2回の出場に控えていました。しかし、海運業界は、仕事の一環としてゴルフをする機会が多く、そのおかげで多くの方から声をかけていただくようになりました。その結果、仕事や人脈にも広がりが生まれました。濱根氏は当初、ゴルフに対してネガティブな反応でしたが、受注に繋がるケースが出てきたことや、周囲から「もっとゴルフに行かせてあげたら」という声が上がる中で、次第に理解を示すようになりました。ただ、試合のために会社を休むことには、工場で働く仲間に対して申し訳ないという思いがありました。そんな中、濱根氏から「全員のことを考えていては何もできない。みんなが頑張っていない時でないと休めないという考えでは、いつまでたっても休めない」と助言を受け、考えを切り替えることができました。
2022年には、日本ミッドアマチュアゴルフ選手権に出場し、結果は7位でした。この試合は、祖父(中部利三郎氏)が作った下関ゴルフ俱楽部で開催されました。また、同年の関西アマチュアゴルフ選手権は、私がメンバーである廣野ゴルフ倶楽部で決勝戦があり、それぞれゆかりのあるコースで大きな試合を迎えることができたことは、私のゴルフ人生において、非常に思い出深く、印象に残っています。
――濱根氏から受けた教えには、どのようなものがありましたか?
入社から約7年後に社長に就任しましたが、濱根氏からは多くのことを学びました。例えば、案件一つとっても、会社のネームバリューよりも「誰」がその話を持ってきたのかが重要であること、為替の見極めのタイミング、そして「難しい船は稼がん」といった実践的な教えがありました。また、入社後の2001年からリーマン・ショックが起こる2008年前までは好況期が続いていたため、市況の厳しさを教えたかった濱根氏は「こんなはずではない」と言っていたことも印象的です。
――社長就任後、最も苦しかった出来事は?
死亡事故が3件連続で発生した時です。ビジネスの大変さとは異なる辛さを感じました。造船所の社長が常に考えていることは、その日1日、安全に船が作れるかどうかということです。毎日終業時刻を無事に迎えることができると、「今日は大丈夫だった」という安堵感があります。
――人生の転機についてお聞かせください。
当社へ入社した2001年です。
――「座右の銘」についてご紹介をお願いいたします。
「明鏡止水」です。鏡のように澄み渡り、穏やかな水面のような落ち着いた状態を示す言葉です。心が荒れていると、そのような状態に気づくことすら難しくなります。だからこそ、常に頭も気持ちもクリアに保つことを大切にしています。ビジネスにおいても、将来どうあるべきかを考える時間が不可欠ですが、心に波が立つと、進むべき方向を見誤る可能性があります。
ゴルフでも同じことが言えます。ボールが林に入ってしまった場合でも、昼休みで気持ちをリセットすることができれば、心を落ち着けた状態で再開することができます。ミスをして後ろに迷惑をかけないように焦って走ってしまうことは逆効果です。結果的に、さらに迷惑をかけてしまうことになります。林に入ってしまった際は、気持ちを落ち着かせて、ゆっくり歩くように心掛けています。
「次善を求めて、最善を尽くす」という父が残した言葉があり、これも大切にしている言葉の一つですが、今の最善を考えるのでなく、常に次の最善を考えることを大切にしています。そのために必要な状態が明鏡止水なのです。
――最近感動したできごと、または夢や目標について教えてください。
少し前の2023年WBC(WORLD BASEBALL CLASSIC)で日本が優勝した際には大変感動しました。選手たちが「日本のために」という強い思いを胸に戦う姿に心を打たれ、まさに夢のような展開でした。その劇的なシーンは、脚本でもなかなか描けないほど素晴らしく、心から感動しました。日本全体が大いに盛り上がりましたが、このような場面に感動するということは、日本人の心の中に、今なお熱い情熱が息づいているのだと感じました。
ゴルフでは、2019年にタイガー・ウッズがマスターズで優勝した時が非常に感動的でした。女性問題やメディアの誹謗中傷、体の不調など、二度と復活できないと言われていたタイガーが、ゴルフの舞台で見事に返り咲いたことは、年齢的にも非常にハードな挑戦だったと思います。最終日の前日には雨が降り、グリーンが柔らかくなりました。スピンコントロールが得意なタイガーにとって、これが有利な条件となり、彼はその勝利を一気に引き寄せました。まさに神の力を感じさせる試合であったことも印象深いです。
会社としての目標は、平穏無事に造船業を継続することです。少子高齢化や環境問題など、対応すべき課題は山積みです。これらの課題に取り組むと同時に、若手社員の育成に力を入れ、将来的には社長候補を育成することを目指しています。さらに、原子力などの新たな取り組みが、近い将来現実になると考えており、これまでの知見や経験を活かして、社会実装に向けて取り組みたいと考えています。
私個人の夢や目標は、日本ミッドアマチュア選手権やシニア選手権で日本タイトルを取ることですが、確実に年齢を重ねていく中で、競技ゴルフを続けていくことに限界を感じる日が来ることも理解しています。
その時、何をするのかという課題に直面することになるでしょう。競技ゴルフを続けてきた私にとって、それをやめる瞬間には、ぽっかりとした喪失感を感じるのではないかと不安に思うこともあります。父も同じような思いを抱えていたと思いますが、どのように向き合っていけば良いのか、現段階でその答えは見つかっていません。
先日、映画「トップガンマーベリック」を観たのですが、無人機開発を進める少将が、「パイロットは絶滅する」と、トム・クルーズ演じるマーヴェリックに告げるシーンがありました。これに対してマーヴェリックは、「でも、今日じゃない(But not today)」と答えます。同世代の自分にも重ね合わせ、このシーンには感動を覚えました。私も今のところ引退の予定はありませんが、これからの人生で自分の時間をどう充実させるかを改めて考えていきたいと思っています。
――思い出に残っている「一皿」についてお聞かせください。
神保町にあった「神田天丼屋 旧:天丼いもや」の天丼です。2023年に突然閉店してしまいましたが、中学生の時から通っていました。天丼にかかるつゆが美味しく、ガスで炊くご飯も、最後の一粒まで最高でした。メニューは天丼一品だけで、海老、キス、イカ、かぼちゃ、海苔などが載り、価格は600円でした。店主は天丼一筋40年、良いものを作り続ければ必ずお客さんが来るという信念で作っており、その姿勢が今でも印象に残っています。
もう1つは、千駄ヶ谷「ホープ軒」のラーメンです。千駄ヶ谷駅や北参道駅からは少し離れた場所にありますが、24時間364日営業しており、タクシーやトラックの運転手などの常連客が絶え間なく訪れるお店です。特に欧州から帰国した際は、真っ先に足を運ぶ場所です。味も店構えも昔から変わらず、私の中の名店です。
――心に残る「絶景」について教えてください。
瀬戸内海も絶景ですが、ゴルフ発祥の地でもある、スコットランドに連れて行ってもらった際に訪れたインバネスのゴルフ場で見た夕焼けが忘れられません。白夜のように長く続く夕焼けは、非常に幻想的でした。
国内では廣野ゴルフ倶楽部の2階のテラスからの夕焼けも大好きです。
【プロフィール】
中部 隆(なかべ たかし)
1969年生まれ 東京都出身
1994年3月 玉川大学 英米文学部 卒業
1994年4月 富士ゼロックス株式会社 入社
2001年 尾道造船株式会社 入社
2004年 取締役業務部長兼東京支店長 就任
2005年 常務取締役 就任
2007年 専務取締役 就任
2008年 代表取締役 就任
2009年6月より現職
■尾道造船株式会社(
https://onozo.co.jp/ja/
)
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