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【マリンネット探訪 第46回】
「和して同ぜず」
造船への誇りと受け継いだ歴史を胸に、新たな航路を切り拓く
< 第560回>2025年03月31日掲載 


住友重機械マリンエンジニアリング株式会社
代表取締役社長
宮島 康一 氏










――住友重機械工業グループのマリンエンジニアリング事業を担う、住友重機械マリンエンジニアリング株式会社の宮島 康一社長です。住友重機械マリンエンジニアリングの概要・特色について、ご紹介をお願いいたします。

 住友重機械の造船事業の歴史は、1897年に榎本武揚が造船を推進し設立された浦賀船渠株式会社(通称:浦賀ドック)まで遡ります。日本最古のドライドックであり、日本の造船業の礎を築いた場所です。その後、浦賀船渠は1962年に浦賀重工業に社名を変更し、1969年に住友機械工業と合併して住友重機械工業の造船部門となりました。2003年には造船部門が分社化され、一般商船の建造と修繕事業などを主体とする現在の住友重機械マリンエンジニアリングが発足しました。発足後の新造船建造においては、アフラマックス型やスエズマックス型等の中型タンカーを手がけてきました。
 当社の造船事業の創業の地である浦賀工場(旧:浦賀船渠)では、商船以外では、防衛省向けの護衛艦や、日本丸といった帆船を建造していましたが、2003年に最終建造船の護衛艦“たかなみ”の引き渡しを終えて工場を閉鎖しました。
 現在の横須賀造船所(旧:追浜造船所)は、大型化が進む商船の建造に対応するために1971年に開設、タンカーやバルカーなどの商船を中心に建造し、浦賀と横須賀を合わせて、これまでに1,400隻以上の船を世に送り出し、日本の海運業の一端を支えてきました。
 造船技術においては特に軽量化技術に優れており、同じ10万トン級のタンカーを建造する場合であっても、当社は通常よりも少ない鋼材で建造する技術を持っていることから、業界内でも高い評価をいただいています。
 また、当社は、造船会社として初めてトヨタ生産方式を導入し、生産の効率化を進めてきました。従来の造船所では、ブロックや鋼材のストックが多く、工場内に大量の部材が並ぶ光景が一般的でした。しかし当社では、必要なものを、必要な時に、必要な分だけ生産・供給するトヨタ生産方式の「ジャスト・イン・タイム(JIT)」の考え方を造船業に応用し、スムーズな生産体制を構築してきました。この取り組みにより、製造現場の無駄を省き、より効率的な工場運営が可能となりました。



――新造船事業撤退の経緯について、また、撤退の方針を知ったときのお気持ちをお聞かせください。

 2003年の造船部門の分社化後は、新造船事業も順調に推移してきましたが、2008年のリーマンショックを転機に新造船事業の環境が一変(悪化)しました。その後も対策を講じながら一般商船の建造を継続してきましたが、思うように業績が伸びず、2024年2月に新造船事業からの撤退を発表しました。私自身、造船業に携わりたいとの志からこの会社に入ったので、この決断は非常に辛かったです。
 長年赤字が続いていたことは認識していましたが、正直ショックでした。この事実を知った時、「いよいよか…」という気持ちがありました。ただ、2~3日経つと、これまでの新造船事業の経緯・業績を理解しているがゆえに、徐々に冷静に受け止められるようになりました。
 私が住友重機械工業の船舶海洋事業部長/住友重機械マリンエンジニアリングの社長に就任したのは2022年4月ですが、その前年の2021年春ごろには、すでに撤退の話が、私を含めたごく一部の役員にのみ共有されていました。しかし、一部の役員しか知り得ない情報でしたので、家族を含めて誰にも話すことができませんでした。そのような状況の中、2021年の最終出社日の12月28日の夕方、当時の社長に役員会議室に呼ばれました。社長が座っている後ろの窓外が夕暮れだったことを今でも鮮明に覚えています。そこで突然、「来年4月から跡を継いでもらいたい。」と言われました。数秒ほど机に突っ伏し、「嘘だろ!?」と心の中でつぶやいたことは忘れられません。その後の年末年始休暇は、これまでにないほど重たいものでした。「なにも年末に言うことないじゃないか!」と結構真剣に先代を恨みました(笑)。



――社員への説明はさぞや厳しいものであったと容易に想像できます。

 社員だけではなく、社員数の倍以上の規模の協力会社さんもいます。その方々の家族も含めると相当数の方々の生活があります。そのため、できるだけわかりやすく、そして当たり前ですが、偽りなく正直に経緯等を皆さんにお話ししました。


―― 一般商船の建造は、2023年度受注船を最終船とし、今後は造船事業で培ったエンジニアリング技術を活かして洋上風力発電事業を軸に事業を展開されると伺っております。海洋構造物や洋上風力関連船舶の建造など、同事業の今後の展開についてお聞かせください。

 新造船事業からの撤退を決めた以上、次の道を切り拓く必要があります。そこで注目したのが洋上風力発電の基礎構造物の製作です。日本国内、特に東日本エリアでこれほどの規模の製造設備を持つ造船所は多くありません。
 政府も洋上風力発電の普及を推進していることもあり、当社も2030年頃には量産体制に入れるよう、設備投資を含めて検討中です。また、実証機製作の引き合いも少なからずあるので、実績を積み上げる意味でも積極的に対応していきたいと考えています。浮体式洋上風力の基礎構造物以外では、ケーソン、ジャケットなどの鉄構構造物の製作、風力発電関連の作業船の建造、更にはコンテナクレーンなどグループ内の他事業部の製品製作も対象案件として考えられます。また、エンジニアリングサービスとして、特に「風事業」に力を入れていきたいと考えています。新造船案件が終わった後も、何としても雇用を維持しながら、洋上風力事業へつなげるために、上記案件に積極的に取り組んでいきます。



――洋上風力案件のお話が出ましたが、風力といえば邦船主・O社と共同でソフトセイル(補助帆)の実証実験を開始されたそうですね。

 O社から「船に帆をつけたい」というお話があり、我々も興味深い技術であると捉えて取り組んでいます。現在、約3万重量トン級のバルカーに翼の形状をした帆「ソフトセイル」を1機設置しましたが、将来的には4機ほど搭載する予定です。「ソフトセイル」の搭載によって推進力が数%向上するという効果が示されています。「ソフトセイル」は風力推進補助装置の中でも比較的安価で導入しやすい点もメリットであり、実証実験の結果次第で、より多くの船舶に展開できる可能性もあります。


――これまでのご経歴についてご紹介をお願いします。

 私は東京都新宿区で生まれ、実家は「としまえん」の近くにありました。子どもの頃はメンコ、缶蹴りに興じるごく普通の少年でした。中学では軟式テニス部、高校では硬式野球部に所属し、とにかく体を動かすことが好きで、夢中で部活動に取り組んでいました。一方で、プラモデル作りも趣味のひとつで、特にドイツ軍の戦車や戦闘機のプラモデルをよく作っていました。こうした趣味を通じてドイツの歴史や文化に興味を持つようになり、大学ではドイツ文学を専攻しました。ドイツが戦後の復興を遂げ、工業国として発展した歴史に興味を持ったこと、そしてその国民性や文化が日本と似ていると感じたことが、専攻を選んだきっかけでした。在学中には、ドイツ語をさらに深く学びたいという気持ちから、ウィーン大学の夏期学校にも参加しました。3カ月ほどのプログラムで、世界中から学生が集まる場でした。30人程度のクラスメイトは世界各国から参加しており、彼らの語学力の高さには驚かされました。夏期学校の最後に期末テストが行われ、イタリア人の方が1位、イスラエル人の方が2位、たまたま私が3位という結果で、学生時代の良い思い出の一つとなりました。


 就職活動では約70社を回り、造船、化学、物流業界を中心に検討していました。その中でも「巨大な船を作る」という造船業に強く惹かれました。タンカーの写真を見た瞬間「これは男の仕事だ」と直感的に感じたことが決め手となり、当社への入社を決意しました。入社当初は船舶部門に枠がなく、産業機械の事業部に配属となりましたが、3年後に縁あって船舶営業部へ異動し、本格的に船の世界に関わることになりました。




――人生の転機についてお聞かせください。

 船舶営業部への異動の機会を得たことです。もともと船の仕事をしたくて入社しましたが、前述のとおり最初は希望が叶わず、それでも上司に思いを伝え続けた結果、3年後に念願の船舶営業に異動することができました。そして、船舶営業として最初に携わった仕事で大きな衝撃を受けました。取引額は億単位で、そのスケールの大きさに圧倒されるとともに、この業界のダイナミックさに魅了されました。
 さらに大きな転機となったのは、マレーシアにある修繕ヤード駐在です。日本の海運会社からの修繕の受注が主な任務でしたが、修繕現場の業務は想像以上に過酷で、着任して最初の8か月間は全く休みが取れないほどの忙しさでした。しかし、修繕業務を通じて多くの経験を積むことができ、さまざまな国の人々と仕事をする機会を得ることができました。



――マレーシア駐在時代の思い出や、記憶に残る事柄はありますか。

 修繕終了後の、船主監督との金額ネゴです。船主監督は、日本人はもちろんのこと、韓国人、インド人、クロアチア人など多種多様な方々がいて、性格ももちろんまちまちです。最初の頃は、割と正直にネゴをしていましたが、ある時、自分がバカ正直に交渉していることに気づきました。それ以降は、普段の会話の中からその人の性格を探り、それを念頭に交渉する術を身に着けたのではないかと勝手に信じています。時には現場と示し合わせて、ネゴすることもありました。その工事完了後の金額交渉で勝ち負けがわかることも、修繕事業の醍醐味でした。そのため、本当に腹を割ってネゴした監督さんとは、いまだに交流があります。
 もう一つのおまけの思い出は、交通事故です。大型ローリーが、私の進行方向を塞ぐように突然目の前で曲がり、雨でブレーキが効かずにそのまま激突。乗っていた車はローリーの下に突っ込み、私は意識を失いました。気がつくと、頭のすぐ横にはローリーのフレームがありました。割れたフロントガラスで衣類は血まみれになっていて、そこから救急車で病院に運ばれ、慣れない土地で顔面の縫合手術を受けました。ようやく自宅に戻り、NHK衛星放送から流れる北島三郎の『風雪ながれ旅』を聞いた瞬間、不思議と涙がこぼれました。「ああ、生きているんだな」と、心の底から実感しました。



――思い出に残っている「一皿」についてお聞かせください。

 一番の思い出の味は、マレーシア駐在時代に食べた『ドライミー』です。汁なしの麺料理で、スープと一緒に食べるのですが、シンプルながら本当に美味しかったです。現地では毎日のように食べていました。
 最近、久しぶりにマレーシアに行く機会があったので、懐かしくなり、また食べに行きました。場所はジョホールバル近郊のマサイ地区にあるお店です。正直、店構えは決して綺麗とは言えませんが(笑)、味は昔と変わらず最高でした。



――心に残る「絶景」について教えてください。

 出張などで国内外に行く機会があり、その土地ごとの素晴らしい風景や建造物を鑑賞する機会がありましたが、最近の私の絶景は「富士山」です。あの雄大な姿を目の当たりにすると、胸が熱くなり、思わず涙腺が緩んでしまいます。年を取った証拠でしょうか(苦笑)。


――「座右の銘」についてご紹介をお願いいたします。

 父親がよく口にしていた『和して同ぜず』です。これは孔子の言葉らしいのですが、「組織人たるもの、協調性は重要だが、道理に合わないことは主張しなければならない。」という意味です。
 年齢を重ねるごとに、その大切さを実感するようになりました。今でも実家に帰ると、父からこの言葉をよく聞かされます。



――最近感動したことについて教えてください。

 何と言っても、新造船の引き渡しで、船が当社の岸壁を離れる瞬間です。毎回感動しています。これまでに何隻も見送ってきましたが、一般商船の新造船事業の撤退を公表したこともあり、公表後の引き渡しでは、本当に複雑な心境で船を見送らせていただいています。残すところあと3隻になり、今後その複雑な思いに「寂しさ」が一層深まっていくことは間違いありません。
 2026年に予定している最終引き渡し船は、社員にとって本当に特別なものになるため、社員の家族にも「ぜひ見に来てほしい」と思っています。社員自らが関わってきた歴史が全て詰まった最後の船だからです。私も含めて社員全員が船を愛していますし、最後の船を送り出すのですから。



――今後の夢を教えてください。

 洋上風力事業を軌道に乗せることです。そして次世代を担う若い世代が、仕事を楽しみながら、適正な報酬を得られる環境を作ること、それが私の夢です。
 当社の社員たちは非常に優秀です。造船業のノウハウを活かして、新たな分野で大きな価値を生み出せると確信しています。造船という枠を超え、さらなる挑戦を続けながら、新しい可能性を切り拓いていきたいと考えています。


 
【プロフィール】
宮島 康一(みやじま こういち)
東京都出身
1988年3月 中央大学 文学部 文学科 独文学専攻 卒業
1988年4月 住友重機械工機株式会社 入社
       プラスチック機械事業部 生産管理部
1991年11月 船舶海洋鉄構事業部 営業室
2003年4月 マレーシア・シップヤード・エンジニアリング(MSE)出向 副参事
2012年2月 住友重機械マリンエンジニアリング株式会社 営業開発本部 営業グループリーダー
2017年4月 営業開発本部長補佐 兼 営業部長 就任
2021年4月 取締役 営業開発本部長 就任
2022年4月より現職


■住友重機械マリンエンジニアリング株式会社(https://www.shi.co.jp/me/index.html

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