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【マリンネット探訪 第49回】
挑む覚悟と実行力
必要とされる存在であり続ける
< 第563回>2025年05月19日掲載 


株式会社新来島どっく
代表取締役社長
森 克司 氏















――自動車運搬船やケミカルタンカーなどの高付加価値船の建造を強みとし、120年以上の歴史を誇る造船会社、株式会社新来島どっく様の森 克司社長です。新来島どっくの概要・特色について、ご紹介をお願いいたします。

 当社は、1902年に前身である波止浜船渠株式会社として創業しました。1949年に来島船渠株式会社を設立、1953年に坪内寿夫氏が社長に就任し、同氏のリーダーシップのもと経営を軌道に乗せました。1961年には大西工場の建設に着手し、1966年に株式会社来島どっくへと社名を変更しました。1970年代から1980年代には、自動車運搬船(以下、PCC)やケミカルタンカーの建造を開始し、建造実績を徐々に積み上げました。当時は、日本が世界の建造シェアの約50%を占めており、来島どっくもその中核を担う存在として、世界一の造船グループと称されるほどに成長しました。しかしながら、1980年代の造船不況や急激な円高の影響により経営が悪化し、銀行支援を受けて私的更生手続きを経た後、造船専業会社として再出発。1987年に株式会社新来島どっくを設立しました。
 現在では、高付加価値船やニッチな船種を中心に、お客様に喜んでいただける船を造り続けています。主力製品のPCCやケミカルタンカー、さらにプロダクトタンカー、バルカー、RORO船、近海船、内航船、専用船や特殊船など、多種多様な船種・船型を手掛けるプロダクトミックスが強みです。特に、PCCとケミカルタンカーでは、それぞれ約50年にわたる建造実績があります。PCCは1973年に日本初の建造船が竣工して以来、累計200隻以上、ステンレス製タンクのケミカルタンカーは約300隻にのぼり、いずれも累計の建造隻数では世界トップクラスを誇ります。また、既存船における当社建造船のシェアは、PCCで約18%、ケミカルタンカーで約12%です。近年では中国・韓国の造船所の台頭も見られますが、品質、性能、荷役効率など、技術面では世界トップクラスとの評価をいただいています。
 また、当社は経営理念に「自主性、独自性を旨とした 中堅造船所の地位を不動のものとし、社会(顧客、地域)に貢献する企業となる」を掲げています。この理念のもと、お客様のご要望を可能な限り船づくりに反映し、一隻一隻個性のある船づくりに取り組んでいます。弊社グループの工場は、設備能力の面では大型船の建造には限界がありますが、中小型船分野で確かな品質と柔軟な対応力を強みとしており、お客様に必要とされる造船所であり続けることを今後も目指していきます。



――グループ会社である新造船の建造造船所6社(9工場)について、現在の受注状況と建造体制をお聞かせください。※以下に記載する「XX型」はすべてXX千重量トン型の意

 現在、グループ内の各工場が概ね3~3.5年の仕事量を確保しています。工場別では、大西工場でLNG燃料PCCの連続建造が大詰めを迎えており、現在は4隻目の艤装工事を残すのみです。その後は、64型バルカー、26型ケミカル船、35型ケミカル船の建造を予定しています。新来島広島どっくは13型近海船、26型ケミカル船、新来島波止浜どっくでは内航油送船を主に建造しており、新来島豊橋造船では、LNG燃料PCCの連続建造を予定しています。新来島高知重工では、41型バルカー、13型や17型の近海船、新来島サノヤス造船はバルカーを専業とし、64型と82型の2タイプを建造中です。グループ各工場には、得意とする船種・船型があり、夫々の特徴を活かした受注体制を確立しています。


――既にLNG燃料PCCの建造実績もありますが、次世代燃料船に対する今後の展開についてお聞かせください。

 どの次世代燃料が主流となるかが定まらない状況であるため、現在は全方位体制で対応しています。PCCでは既にLNG燃料船の実績があり、おかげさまでお客様からも高い評価をいただいています。この実績を活かし、今後も受注に繋げていきたいと考えています。また、ゼロエミ燃料のアンモニアに関しては、燃料供給のサプライチェーンの確立が課題ですが、アンモニア燃料PCCを受注できるよう、現在勉強中です。また、当社が得意とするケミカルタンカーにおいては、現段階で成約には至っていませんが、LNG燃料船のGDA(一般設計承認:基本設計承認〈AiP〉より進んだ詳細設計段階を指す)を取得済みです。


――御社はこれまで、他社との集約によってグループ会社を拡大してきました。集約や連携において直面された課題や、それらを通じて生まれたシナジーについてお聞かせください。

 直近では、2021年にサノヤス造船をグループに迎え入れ、2025年2月28日で丸4年を迎えました。当初のグループ化の目的は、設計力の強化、ガス燃料タンクの内製化、修繕船部門の規模拡大、建造能力増強によるコストダウンなど、様々なシナジーを期待してのものでした。
 中でも設計面では、同じ中堅造船所としてバルカーの設計力に定評のあった同社に、大きな期待を寄せていました。2021年当時、当社はLNG燃料PCCの建造について邦船3社から引き合いを受けており、即戦力となる設計体制の強化が急務でした。その意味でも、サノヤスの設計陣には大きな期待をしていました。しかし、バルカー専業の同社と、多種多様な船種を手がける当社とでは設計思想に違いがあり、単純に設計人員が1.5倍になったからといって、相互理解と融合には一定の時間を要しました。
 そうしたなか、時間をかけてお互いのノウハウや設計文化を擦り合わせることで、強みを活かした体制づくりが徐々に形になってきています。特にバルカーはサノヤスの得意分野であり、その強みを最大限に発揮できるよう、グループ全体で体制整備を進めてきました。一時は64型バルカーを「大西タイプ」、「サノヤスタイプ」の2種で建造する案もありましたが、設計への負担とブランドの一元化を考慮し、バルカーの設計は基本的にサノヤスが担う方針としています。この1年で役割分担も明確になり、グループ全体の設計力や競争力が確実に増してきていると実感しています。

 タンク事業では、新来島サノヤス造船を通じてこれまでにLNG燃料タンクを6隻に搭載しており、グループ内でのタンクの内製化を実現できました。更にタンクだけでなく、FGSS(燃料供給システム)についても内製化を進めており、今年2月に豊橋で無事に引き渡しを終えることができました。現在、GX経済移行債の支援を受け、2028年度までに大阪製造所と水島製造所への設備投資を実施し、新燃料船向けのタンク及びFGSSの生産能力を倍増させる計画を進めています。
 修繕船事業では、水島製造所の大型ドックを活用し、グループ建造船のPCCやRORO船の修繕工事をグループ内で完結できる体制が整いました。
 造船業界でも人材の確保や育成が大きな課題ですが、工場ごとに工事量に波があるという業界固有の特性もあることから、連携によって工場間の応援体制が強化されたことは、今後の各工場の操業拡大に向けて、大きな強みになると期待しています。



――タンクやFGSSを他社に提供する予定は?

 現状では、タンクおよびFGSSの供給はグループ内のみとなっています。当面は、新造のLNG燃料PCCの建造工程と連動させた生産体制としており、安定供給が可能な体制を構築していきます。


――造船業の人手不足に対する御社としての取り組みについてお聞かせください。

 現在、協力会社も含めてグループ全体の従業員数は約6,000人にのぼります。全従業員が楽しく働ける環境を整備することが、最も重要な取り組みであると考えています。その実現のためにも、公平性を担保しながら、出来る限りの処遇の改善や福利厚生の充実に取り組むことで、会社の「人を大切にする姿勢」を従業員にしっかりと伝え、定着率の向上にもつなげていきたいと考えています。

 新卒採用においては、大学3年生の夏休みから短期インターンシップの受け入れを行っています。これにより、学生が造船所の仕事や職場環境を身近に感じることができ、実際に良い反応を得られています。また、造船業界そのものを若い世代に認知してもらえるよう、業界団体として学生への認知向上に取り組むよう、造船工業会に対して働きかけをしているところです。
 中途採用も通年で実施しており、Uターン希望者や県内からの転職者も徐々に増えています。女性活躍推進にも力を入れており、設計技師では既に定着しています。近年は建造技師への配属も始まり、少しずつ活躍の場が広がりつつあります。さらに、文系出身であっても技術系職種の希望であれば、意欲や適性を重視しながら積極的に採用しています。

 外国人材の活用も不可欠です。現在、大西工場の製造部門では、協力会社を通じて就労している外国人材が全体の約4割強を占め、フィリピン人やベトナム人のほかに、インドネシア人も増加傾向です。一方、設計や建造技師等の高度人材の採用にも着手しており、ベトナム人1名を設計技師として採用しています。今後も採用を継続し、今治市に対しても、外国人が長く安心して暮らせる環境整備をお願いしています。
 高齢者の活用も継続的に取り組んでおり、定年(65歳)後も多くの方に継続雇用をお願いしているほか、障がい者雇用も特例子会社を中心に受け入れを進めています。



――これまでのご経歴についてご紹介をお願いします。

 愛媛県波方町の出身で、実家は両親と祖母の3人でタオル用の糸を扱う撚糸業と農業を兼業していました。子供の頃は、テレビで観られる野球中継は巨人戦のみで、自然と巨人ファンになり、野球が大好きになっていきました。小学校には野球部がありましたが、担任の先生からの推薦が必要でした。しかし私は体が小さく、運動も得意ではなかったため、推薦を受けることができませんでした。少年時代は野球部には入れませんでしたが、近所の友人たちと草野球に夢中でした。
 中学校では野球部でなく、軟式テニス部に入部しました。ただ、当時は高校野球が非常に人気で、私もその熱気に心を奪われていました。江川卓投手の迫力ある剛速球は、今でも鮮明に記憶に残っています。中でも、地元の今治西高校が江川投手から20三振を奪われた試合は忘れられず、のちに巨人に入団した定岡投手や篠塚選手の活躍にも胸を躍らせたものです。


 そのような高校野球への強い憧れを抱きながら今治北高校に進学し、入学と同時に野球部の練習を見に行きました。「自分もここで挑戦してみたい」という気持ちが高まり、入部の決意を固めて父にその思いを伝えたところ、「体も小さく、野球経験もないお前が、高校野球を続けられるはずがない。地道に勉強して大学を目指せ。」と一喝されました。その言葉に反論することも、自分の意思を貫くこともできず、私は気持ちの整理がつかないまま、勉強にも身が入らず、目標も持てないまま高校生活を過ごしていました。

 大学は、唯一合格した松山商科大学(現:松山大学)に進学しましたが、野球への夢を持ち続けていた私は、迷うことなく硬式野球部への入部を決意しました。その時は父も私の思いを尊重してくれました。それまで本格的に野球を経験してこなかった素人の私でしたが、先輩や同級生が親身になって教えてくれたおかげで、4年間野球を続けることができました。
 2年生の6月には、全日本野球選手権大会への出場が決まり、私も運よく神宮球場でベンチ入りできたことは大変思い出深いです。原辰徳選手(元 読売巨人軍監督)や岡田彰布選手(元 阪神タイガース監督)を間近で見る機会にも恵まれ、とても興奮したことを今でも覚えています。

 就職活動では、自宅から通える場所で働きたいという思いがあり、地元企業の中から就職先を選びました。叔父たちが造船所の下請け業を営んでいたこともあり、造船業は身近な存在でした。また、地域を支える重要な産業であるという認識も、子どもの頃から自然と育まれていたように思います。当時は造船不況と造船不況の間の景気回復期で、文系出身者にも一定の採用枠があり、ご縁があって来島どっくに入社することができました。
 最初に配属されたのは業務部教育課で、4年間にわたって社員や社外向けの研修を担当していました。当時は「再建王」と称されていた社長 坪内寿夫氏の経営哲学が強く推進されており、私もその普及活動の一環として、研修や啓発業務に携わっていました。しかし、社内で経営状況が深刻化する中、研修活動を続けることに次第に違和感を覚え、異動を希望し続けました。その後、原価管理課に異動となり、そこでは約15年間勤務しました。2000年当時の造船不況の際には、グループ会社を分社化し、100%子会社化する動きがありましたが、私はその仕組みづくりや、コスト削減を中心に関与しました。
 その後は生産管理の部署に異動となり、それまでは船やモノづくりの現場を深く知る機会が無かったので、毎日現場に足を運んでモノづくりについて勉強できたことは、造船会社で働くということを改めて実感することができた経験でした。しかし、「これから頑張るぞ!」という意気込みで仕事に取り組んでいた矢先、人事異動で勤労係(人事)に異動することになり、涙が出るほどショックでした。人事では7年ほど勤め、その後は総務部長に就任し、徐々に役割も広がっていきました。社長就任は突然のことではありましたが、できるかどうかではなく、やるべきこととして受け止め、覚悟を持って就任に至りました。



――特に印象に残っている仕事は?

 分社化の仕組みづくりに関与した経験です。結果的に従業員の人件費を下げることになり、会社を離れる人もいました。さらに、コスト競争力強化のために立ち上げられた「CD30(コストダウン30%)プロジェクト」では事務局の運営にあたり、可能な限り無駄を省き、社内のコスト圧縮に尽力しました。時には厳しい判断を迫られることもありましたが、製造企業として重要なポジションで仕事ができたと感じます。コストダウンは現在も言い続けていますが、賃金は引き上げつつ、生産性向上とそれ以外の部分で効率化や合理化を図るという考え方は、今も変わらず大切にしています。


――人生の転機についてお聞かせください。

 大学進学後、野球経験もない私が無謀にも硬式野球部に入部したことです。「野球部に入部し、やり通す」という自分の意志を貫き、夢を実現できたことは、私自身の性格や人生を大きく変える転機となりました。また、野球経験ゼロの私が4年間続けることができたのは、先輩や同級生たちの温かい指導と支えがあったからです。彼らとは今でも深い絆でつながっており、生涯の友人となりました。また、高校では野球部への入部を反対していた父も、私の挑戦と成長を認めてくれました。大学での4年間、野球を通じて自分のやりたいことに打ち込み、仲間とともに汗を流した日々は、今でもかけがえのない財産です。



――「座右の銘」についてご紹介をお願いいたします。

 座右の銘と言えるほどの特別な言葉は持ち合わせていませんが、「迷ったら実行する」ということを大切にしています。高校時代に野球に挑戦できなかった悔しさがあったからこそ、大学で思い切って硬式野球部に入部し、自分の意志でやり抜いたことは、大きな自信につながりました。もちろん、十分に考えたうえでの決断でなければ、逆に後悔してしまうこともあります。それでも、「やらなければ何も得られない」「失敗してこそ学びがある」と常に意識しながら行動するようにしています。
 また、私の好きな河島英五さんの名曲「時代おくれ」の歌詞に“自分のことは後にする”、“妻には涙を見せないで”、“子供に愚痴を聞かせずに”という一節があり、これらの言葉には深く共感しています。常に感謝の気持ちを忘れず、相手の立場や気持ちを考えて、後ろ向きな発言はしないよう心がけています。



――最近感動したできごと、または夢や目標について教えてください。

 地元の愛媛マラソンは今年で9回目の出場でしたが、6時間の制限時間内に完走できた瞬間の達成感は何ものにも代えがたく、感動した経験です。毎年5,000人以上のボランティアの方々の献身的なご支援や温かい声援のおかげで走り続けられていることにも心から感謝しています。
 プライベートの夢は、ホノルルマラソンに出場することです。そして完走後は、1か月ほどハワイで妻とゆっくり過ごしたいと思っています。ハワイは大学の卒業旅行で友人と訪れたのですが、当時は学生でお金もなく、旅費の20数万円を全額クレジットで借りての旅行でした。現地では、ランニングをしたり泳いだり、食事もホットドッグとオレンジュースで過ごした倹約旅行でしたが、とても楽しかったです。最後の夜はサンセットクルーズに出かけ、船上でのディナーパーティーを楽しんだことは大変良い思い出です。
 仕事における目標は、大好きな地元の今治市が、これからも海事産業で発展し続けるよう貢献することです。そのためにも、星浦海岸から眺めるPCCが岸壁に浮かぶ当社の姿が、観光名所となるよう力を尽くしていきたいと考えています。



――思い出に残っている「一皿」についてお聞かせください。


 小学生の頃に父に連れていってもらった今治焼き鳥です。当時は年に一度あるかないかの外食で食べていた味ですが、甘口のタレが子どもの舌には最高で、がぶりと頬張った時の喜びは今でも忘れられません。今治焼き鳥は、骨付きのモモ肉を鉄板で焼いたもので、最近今治でもあまり見かけなくなりましたが、私にとっては懐かしい思い出の味です。
 また、妻の手料理はとても美味しく、健康管理にも気を配ってくれるので日々感謝しています。私は豆腐が大好きなのですが、「小松菜と厚揚げの煮浸し」が好物で、これに卵を落として食べるのが最高です。味噌汁も豆腐がたっぷりと入っているものが大好きです。




――心に残る「絶景」について教えてください。

 奥穂高の朝焼け「モルゲンロート」です。奥穂高岳の山頂まで登り、翌朝6時頃、山小屋に泊まっていた登山客の方々が穂高連峰を見ていたので、私も視線を向けたところ、朝日が山肌に照らされて、山々が朝日に染まる素晴らしい「モルゲンロート」を目にすることができました。
 登山は、子どもが小学生の頃にPTAを通じて仲間ができたことをきっかけに始めました。年に1度、日本百名山を登っており、これまでに富士山や北岳、屋久島の宮之浦岳にも登りました。



【プロフィール】
森 克司(もり かつし)
愛媛県出身
1982年3月 松山商科大学 経済学部 卒業
1982年4月 株式会社来島どっく入社
1986年6月 業務部原価課
2001年9月 船舶造修本部生産管理室
2004年6月 総務部勤労課
2005年4月 総務部総務人事課長
2011年4月 業務財務本部総務部長
2014年4月 執行役員 総務部長 就任
2017年4月 常務執行役員 就任
2021年6月 取締役常務執行役員 就任
2023年4月 代表取締役専務執行役員 就任
2023年10月より現職


■株式会社新来島どっく(https://www.skdy.co.jp/

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