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【マリンネット探訪 第52回】
あるがままを受け止め、今できることを全力で
受け継がれた溶接技術で次の100年へつなぐ
< 第567回>2025年07月22日掲載 


金澤鐵工株式会社
代表取締役社長
金澤 良樹 氏














――1919年に創業し、日本初の高圧容器認可メーカーとして高い技術力を誇る金澤鐵工株式会社様の概要・特色について、ご紹介をお願いいたします。

 大正8年に私の曾祖父が神戸市長田区で金澤鉄工所として創業しました。今年の3月で創業106年を迎え、私で4代目となります。創業当時は、近隣に造船所やエンジンメーカーなど船舶関連の会社が多くあり、当社は船舶用部品の製缶を行っていました。
 現在の主力製品は船舶用のエンジン始動用空気槽です。船のエンジンには、『主空気槽』や『始動用空気槽』と呼ばれるエアタンクがあり、かつては鋲(びょう)止めやリベット止めと呼ばれる方法で製造していました。しかし、この方法は接合部を鋲・リベット(留め具)で固定するため中の気体が漏れる可能性があります。このため、取引先から溶接構造で製造してほしいというご要望をいただき、昭和24年に、国内で初めて溶接構造のエアタンクの製造・認可取得をしました。



――船舶の燃料の種類が多様化しています。製品へのニーズの変化などはありますか。

 燃料油タンクは常温下で液体を保管します。一方、新燃料で使用される水素などのガスは圧力をかけて液化するため、その圧力に耐える強度を持った『圧力容器』が必要になります。
 エネルギー改革により、水素やアンモニア、メタノールなどの新燃料が注目されており、これに伴い圧力容器の需要が増加しています。より高い強度の素材を使った設計や、溶接に必要な資格取得などを進めています。








――御社の技術力を維持・活用するための取り組み、特に人材確保や育成についてお聞かせください。

 以前は工場で働く技術者も、事務所の社員も年齢層が高く、また、各業務で属人的な部分がありましたが、代替わりに伴い組織運営の見直しを行いました。
 ベテランが多い職場でしたが、現在は未経験者の採用にも取り組み、人材を育成しています。技術力の維持に関しては、以前の工場長が人材育成に優れた方で、彼が育てた人材がまた次の世代へ教育を行うという好循環が生まれています。このようにして、溶接の技術も着実に受け継がれています。
 事務所での業務に関しても、複数の業務を数名で分担することで休暇や退職があった場合に補えるような体制に変更しました。
 特にものづくりの仕事は、技術力に加え、「管理」が不可欠だと考えています。必要な材料の管理や設計、検査の申請など、あらゆる業務が求められるため、これら業務の「管理」に関して会社として力を入れ人材育成を進めていきたいと思っています。



――採用活動などの取り組みで社員構成はどのように変化しましたか?

 私が入社した当時、社員は約25名在籍しており平均年齢は50歳程度でした。現在は社員数が40名(うち28名が技術者)で、平均年齢は40代前半まで若返っています。


――今後の展望についてお聞かせください。

 目標としては、新たな工場を建設することです。現在の工場は老朽化が進んでいることに加え、近隣が住宅街であるという点も課題であると考えています。おかげさまで業績も好調で、現在の工場では手狭になってきていることから、まずは第二工場を設立し、その後も規模を拡大していきたいと考えています。
 また、従業員の皆さんにはハッピーでいてほしいと思っています。給与面だけでなくその他の面でも、「金澤鐵工に入ってよかった」と言ってもらえるような環境を整えていきたいです。




――これまでのご経歴についてお聞かせください。

 明石市で生まれ、幼少期以降は神戸市長田区で育ちました。中学校から大学までは一貫校の関西学院に通っていて、中学ではテニス部、高校は陸上部、大学はテニスサークルに所属していました。



――学生時代に、家業を意識したことはありますか?

 特に意識することもなく、一族で会社を経営しているという程度の認識でした。仕事内容もあまり知りませんでした。父の友人が自動車整備工場を経営しており、幼い頃はその仕事がとても格好良く映っていたため、車の整備士になりたいと思っていました。



――就職活動はどのように進められたのでしょうか。

 金澤鐵工に就職するつもりは全くありませんでした。父からは何も言われていませんでしたし、母は私に会社を継いでほしくないと言っていました。海運不況により経営が厳しい時期もありましたので、母は私にそういった苦労をさせたくなかったようです。私自身も家業にそれほど興味がなかったため、就職活動では家業と一切関係のない企業を志望していました。
 当時は就職氷河期で、名立たる大企業でも採用人数が1名ということも珍しくありませんでした。一方で、SE(システムエンジニア)という職種が登場しはじめた時期で、SE職の募集枠はかなり多く確保されていました。そうした中で、私はNEC(日本電気株式会社)にSE職として内定をいただきました。その後の面談で営業職にも興味があることを伝えたところ、営業職として配属されることになりました。



――ご両親の反応はいかがでしたか。

 親にあまり相談することなく上京を決断しましたが、両親は喜んでくれました。しかし後になって聞いたところ、父は当時「これで会社は自分の代で終わる。」と思ったそうです。社員の方々も同様の気持ちを抱いていたようです。


――就職された後はいかがでしたか。

 会社がある田町まで、我孫子(千葉県)の寮から常磐線で通勤していました。当時の常磐線といえば、缶チューハイを持った酔っ払いのおじさんたちが乗ってくるような路線でした。入社後の研修期間が終了すると、毎日終電まで仕事をしていましたので、そうした光景も相まって一層疲れを感じたものです。


――営業ではどのような商材を扱われていましたか。

 最初は、当時開発が進められていた高速道路のETC事業に営業として携わりました。その後は外食業界で、有名なファミリーレストランチェーンなどのPOS(レジのシステム)を担当しました。






――その後、金澤鐵工に入社するきっかけは。

 NECに入社して一年経った頃、父が出張で東京に来る機会がありました。一緒に食事をした際、初めて金澤鐵工の仕事について話を聞きました。この時点では、この先もNECで頑張っていこうと思っていましたが、父の話を聞いたことがきっかけで家業を意識するようになりました。


――お父様はどのような心境だったのでしょうか。

 実は私が就職して間もない頃、初任給で親にごちそうをしようと帰省したのですが、その際に母から「父の様子がおかしい、元気が無い」と聞いていました。家業が自分の代で終わってしまうことを気に病んでいたようです。


――お父様は、会社を継いでほしいという気持ちがあったのですね。お話を聞いてどのように思いましたか。

 父から仕事について「現場と一緒になってものづくりをしている」という話を聞き、大きな魅力を感じました。NECの仕事も充実していましたが、営業職として働く中で、実際のシステム開発の現場が見えない点に物足りなさを感じていました。父の話を聞き、自分も現場に近い立場で仕事をやってみたいと思うようになりました。
 その後、NEC入社から一年半が経過した2003年の10月に、金澤鐵工へ転職しました。当時は舶用関連の会社にとって不況の時期で不安もありましたが、「やってみよう!」という気持ちで入社を決めました。



――周囲の反応はいかがでしたか。

 父は調子を取り戻し、社員のみなさんも歓迎してくれました。ただ、私には製造業の現場経験がないということで、その点であまり期待はされていなかったようです(笑)
 入社後は営業職として、3年ほど父の補佐役を務めました。




――いずれ経営者になるという立場で入社されたかと思います。会社をどのようにしていこうと考えていましたか?

 当時は、社員もお客様も父親世代の方が多かったので、会社を存続・発展させていくためには自分と同世代の人材を見つけ、次の世代に向けた体制づくりが必要だと考えました。
 入社後しばらくして、海運の景気が回復したタイミングで本格的に人材採用活動を開始しました。新たに入社いただいた方に教育をする必要があったため、私自身も、これまで関与していなかった設計や検査等に関して幅広く学ぶようになりました。
 また、私の大学時代の友人にもご縁があって入社してもらうことができ、現在は営業部長として活躍いただいています。



――社長に就任された経緯は。

 社長の交代については、私から父に申し出ました。父の補佐役として仕事をしているうちに、私自身「もっとこうした方がいいのでは」という理想を持つようになり、船舶用製品にとどまらず、陸上向けにも販路を拡げていきたいという気持ちが強くなりました。一方、父としては年齢的なこともあり、一度は事業の終了も覚悟していたため、現状を維持できれば十分だと考えていたように思います。そうした中で意見の食い違いも生じていたのですが、最終的には父が私の意見を受け入れ、2015年4月に社長を継ぐことになりました。




――人生の転機となった事柄についてお聞かせください

 一つは、高校一年生の時に阪神・淡路大震災で被災したことです。前日までいつも通りの日常生活を送っていましたが、震災発生後は1か月間ほど家から出られないような状況になりました。自宅があった長田では火事が多く、通学路のエリアでは高速道路が倒壊するなどの被害もありました。震災直後は電車が全て止まっていたので、自転車で3時間かけて高校まで通いました。幸い、自宅は倒壊しませんでしたが、水も電気も止まり、当たり前のことができない状況に衝撃を受けました。

 もう一つは、社内の人間関係に関するトラブルです。人材確保を強化したことで、従来の親族中心の経営とは異なる体制となり、それまで無かったような問題も生じるようになりました。様々な価値観や背景を持つ人が集まる組織になったことで、周囲と折り合いがつかずトラブルになってしまう方もいれば、こちらが誠実に対応していたつもりでも、結果的に恨まれてしまうこともありました。私はどちらかというと楽観的な性格でしたが、そうした出来事に直面する中で、深く悩むことも増えていきました。一方で、そうした場面で間に入ってくれる人や、支えてくれる人の存在は大きな救いであり、人のありがたさを改めて実感する経験にもなりました。



――「座右の銘」についてご紹介をお願いいたします。

 高校生の時に、友人からビートルズのCDを借りて「Let It Be」という歌を知りました。私はLet it beという言葉を「なすがまま」、「あるがまま」という意味で捉えていて、とても気に入っています。社長としては本来、長期的なビジョンを持っているべきだとは思うのですが、私は「その時にできることを全力でやれば、きっとうまくいく」と考えています。


――最近感動したことや夢について

 最近、母親を癌で亡くしました。最後は緩和ケアの施設に入院していて、家族としてはある意味お別れの時間をもてたのですが、その際「これまで十分にやってもらった。幸せだった、ありがとう」と言われました。悲しさはもちろんありましたが、一日一日頑張ってやっていくしかないと自分を奮い立たせるできごとでした。
 夢については先ほども少し触れましたが、従業員の方だけでなく、お客様や家族、自分に関わる方々にハッピーでいてほしいと思っています。



――思い出に残っている「一皿」についてお聞かせください。

 震災後間もない頃に、母と神戸に行く機会がありました。崩れたビルや、停電で閉店中のお店が多い中で、母親に「ラーメンを食べに行こう」と誘われ、その時開いていた中華料理屋に行きました。当時は自宅の冷蔵庫も使えず毎日パンなどを食べていて外食もほとんどできないような状況でしたし、温かいものを食べるのも久しぶりで、その時食べたラーメンが非常に美味しかったです。また行きたいと思っていたのですが、その中華料理屋さんがどこだったのか覚えておらず、それ以来行くことがありませんでした。
 それが、最近たまたま近所を通った時にお店の看板を見て、「ここだ!」と見つけました。『順徳(じゅんとく)』というお店です。できれば母ともう一度行きたかったですね。




――心に残る「絶景」についてお聞かせください。

 西穂高岳山頂からの眺めです。5年ほど前から登山を始めたのですが、当時人間関係で悩んでいて、ある方に相談していたところ、「ずっと仕事ばかりしていないで、気晴らしに運動しよう!」と誘っていただき、西穂高岳に連れて行っていただきました。運動をしていなかったので体力がなく、初回としてはかなりハードでしたが、山頂からの眺めが本当に素晴らしかったです。これをきっかけに、色々な山に行くようになりました。


【プロフィール】
金澤 良樹(かなざわ よしき)
1979年生まれ 兵庫県出身
2002年3月 関西学院大学 卒業
2002年4月 日本電気株式会社 入社
2003年10月 金澤鐵工株式会社 入社
2015年4月より現職


■金澤鐵工株式会社(https://www.kanazawatekko.com/corporate.html

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