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【マリンネット探訪 第54回】
愚直にして誠実
船を錆びさせない、その信念が人と現場を育てる
< 第569回>2025年08月22日掲載 

株式会社東栄ジャパン
(株式会社東栄ホールディングス)
代表取締役社長
萬 昌也 氏










――創業から40年以上にわたり、船舶の安全運航を支えてこられた株式会社東栄ジャパン様の萬 昌也社長です。東栄ジャパンの概要・特色について、ご紹介をお願いいたします。

 当社は、1978年に伯父である先代の故東出浩一が創業した、船員派遣業を手がける株式会社東栄マリタイムに由来します。当時は、広島や今治の船主様を中心に、日本人船員全乗から韓国人やフィリピン人といった外国人船員への置き換えを進めていた時期です。その後、近海船を建造し船主業にも進出しました。しかし、1985年のプラザ合意後の円高進行や、海運市況の低迷によって経営環境が大きく悪化。そうした状況の中で、1986年に社名を株式会社東栄ジャパンと改め、再出発を図りました。
 私が入社した1991年当時、当社では20数隻の船員派遣業と、近海船1隻の船主業を行っていました。その頃はまだ当社の船舶管理は船長の裁量に委ねられる部分が大きく、会社による「船舶管理業」という概念が浸透していませんでしたので、船員派遣業の延長のような形で船主様に対し助言やお手伝いをしているに過ぎませんでした。しかし、近年になって、ISMコード(国際安全管理コード:International Safety Management Code)が強制適用となり、船舶管理業そのものがより厳格化されました。これにより船舶管理における責任の所在が明確化され、DOC(Document of Compliance, 適合証書)によって管理会社としての安全管理能力を第三者が認証する仕組みが確立されました。
 そのような状況から、当社は収益の柱としての船舶管理業の強化を試みましたが、日本人海技者の高齢化によって人材確保が難しく、2013年には、優秀なSI(Superintendent, 船舶監督)が多くいる韓国に船舶管理会社TOEI KOREA LTD.を設立しました。その結果、管理の質も向上し、その後の管理隻数の拡大にもつながりました。
 2016年には、東栄ホールディングスに商号を変更し、事務所も現在の場所に移転しました。ホールディングス体制にしたのは、その傘下に船主業と管理業の会社を分けることにより、その責任関係を明確にするためでした。
 当社が大切にしている精神は、「船を絶対に錆びさせない」、「安全第一」、「迅速、緊密な報告・連絡・相談」の3つです。従業員一人ひとりが、お客様に「安全と安心を提供し、財産と信用を守る」という使命感を胸に刻み、日々の業務に真摯に取り組んでいます。私自身、ビジネスにおいて「真面目さ」や「誠実さ」は非常に大切な姿勢だと考えています。特に、前職の会社でよく聞かされた「愚直」という言葉は、今の私の行動指針にもなっています。
 当社は多様な価値観を持つ中途採用人材が多く在籍していますが、一人ひとりの長所短所をしっかりと見極め、長所を伸ばすことに力を注いできました。人は物心ついた頃より本能として世の中の役に立ちたいと願う生き物であると思っていますので、そうした積み重ねが「真面目さ」や「誠実さ」を大切にする企業風土の醸成につながっていると感じています。人手不足が叫ばれる昨今ですが、当社ではどのような状況であれ、魅力ある職場づくりに積極的に取り組んでいます。



――船員派遣業や船舶管理業において、御社が強みと捉えている点についてお聞かせください。

 当社の最大の強みは、何よりも「人材」です。従業員一人ひとりが船を心から愛し、前述のとおり、真面目で誠実な姿勢で日々の業務に取り組んでいます。そうした個々の人間力こそが当社を支える力となっています。
 特に営業面においては、お客様との関係構築を重視しており、現場と一体となって定期的に訪問することで、円滑なコミュニケーションを図り、いち早くニーズを把握できるよう努めています。SNSなどで気軽に連絡ができる時代になっても、心が伴わなければならないという姿勢を大事にしています。船舶管理業務を行う上では、「自己満足に陥っていないか」、「常に顧客満足の視点で管理できているか」を意識することも重要です。お客様から必要とされる存在であり続けるよう、一つひとつのご要望に丁寧に向き合いながら信頼関係の構築に努めています。また、私は日頃から「会社は社会の役に立ってはじめて社会から利益を得ることができる」と繰り返し伝えており、この考えも大事にしています。
 さらに当社自身も船主としての側面を持っているため、船主の皆さまが抱える課題もより当事者意識をもって理解・対応することができるのではないかと考えています。



――時代や外部環境の変化とともに、船員派遣業や船舶管理業における課題も変化してきたかと思います。その中でも御社が近年特に重要と感じる課題についてお聞かせいただけますでしょうか。

 脱炭素などSDGsへの流れは簡単に変わるものではないでしょうし、荷主が本船の運航や管理状況に対して一層関与する傾向も強まることと思います。そのような中でも、変わらず我々が提供しなければならないのは安全と安心です。お客様の船が無事に稼働できるよう責任をもって管理する立場である以上、環境や運航に対するスコアリングへの対応も求められており、それに応えるためには、船員や船舶管理のレベルをさらに高めていく必要があります。一方で、ベテラン人材の高齢化や人材不足といった課題は深刻であり、人手の確保すら厳しい状況です。いずれAIなどによりある程度の対応ができる時代が来ると思いますが、それでもなお、我々は専門人材の確保と育成を通じて、これらに真摯に対応していきたいと考えています。


――海運業界におけるデジタル化の進展に伴い、顧客ニーズにも変化が生じているかと思います。そうしたニーズに対して御社ではどのような取り組みを進めていますか。

 通信環境の向上は、当社の船舶管理業にとって大きな追い風であると捉えています。昨年(2024年)には、当社が管理する全船で、船陸間の常時接続を実現しました。船舶管理は、ISMコード適用開始以来、紙ベースでの運用が主流であり、本船のEメール導入後であっても情報の整理や共有が煩雑になっていました。そこで当社はIT企業と提携して、船舶管理業務をクラウド上で行える船舶管理支援プラットフォーム「OceanOffice」を独自に開発し、自社での活用にとどまらず、2025年5月より外部への提供を開始しました。11のモジュールを搭載し、ClassNK(日本海事協会)承認のPMS(保守計画管理システム)、船員の労務管理、検査スケジュールやSMS(Safety Management System:安全管理システム)、インベントリーなど、多岐にわたる情報を船陸間及び関係者間でリアルタイムに共有できることが特長です。入力のほとんどは船側で行いますが、従前の入力業務より船員負担も軽減され、監督側はチェックと指導に集中できるため、安全運航の支援に大きく貢献します。同プラットフォームの導入により、当社では8割以上のペーパーレス化を実現しており、業務効率化にも大きく寄与しています。


――これまでのご経歴についてご紹介をお願いします。

 兵庫県神戸市出身ですが、父の転勤により2歳の時に東京に移り住みました。子供の頃からスイミングや野球教室、カブスカウト、音楽教室、絵画、英会話など、様々な経験をさせてもらいました。結果的にそれらのどれにも才能を見い出せませんでしたが、同居していた祖母と「水戸黄門」、「遠山の金さん」などの時代劇を一緒に見ていた影響で、勧善懲悪の世界観に強く惹かれていきました。そして、正義の政治家になりたいと思い始めるようになりました。小学校高学年の時、田中角栄氏のロッキード事件やその後の高額保釈金のニュースを見聞きした際、「許せない」と強く憤る一方で、「お金があれば自由になれるのか」との気づきから、現代社会ではお金を持つことも大事だという気持ちも芽生えました。
 両親から勉強をしなさいと言われることはあまりありませんでしたが、「政治家になるにも、お金持ちになるにも、勉強して東大に進学することが一番の近道だ」と、私立中学への受験を勧められました。それをきっかけに進学塾に通い、中高一貫の私立男子校に進学しました。
 入学直後、姉の影響で洋楽好きだった私は、隣の席になった友人と音楽の話で意気投合し、その流れでその日のうちにバンドを結成することが決まりました。最初の出演は中学3年生の時の文化祭で、私はベースを担当することになり、主にハードロック系の曲を演奏していました。
 高校3年生の文化祭までバンド活動を続け、その過程で他校のバンドを誘って「カリフォルニア・イチゴジャム」という名のライブイベントを企画・開催し、チケットの販売も自分たちで行いました。




――部活動は?

 中学2年生の時に陸上部に入部しました。入部の動機は「バンドで世界ツアーを回るには体力が必要だ」という話になり、メンバー全員で入部することになったからです。メンバーの中で一番足の遅い私は練習には殆んど行かず、たまに参加することがあると大変苦労しました。
 中高時代は、バンドやディスコ以外にも、友人に誘われるがまま帰り道も存分に楽しみ、遊びに全力を注いだ日々でした(笑)。
 しかし高校3年生になると、周囲の友人たちは推薦入試などで次々と進路を決め、「さすがにこのままではまずい」という危機感が芽生えました。成績が学年で常に最下位付近を低迷していたので、秋以降は1日10時間以上の勉強を続けました。当初の目標だった東京大学は、受験できるところまで案の定辿り着かず、一時は浪人も覚悟していましたが、なんとか慶應大学に合格することができました。合格の報告をした先生からは「うそだろ」と言われたほどです(苦笑)。当時、友人達との間では「大学落ちても友達残る」というのが合言葉のようになっており、受験を控えた不安な時期も友人との関係が何よりの支えになっていました。



――どのような大学生活でしたか?

 授業料を出してくれた両親には申し訳ない気持ちもありましたが、当時の私は「大学は勉強以外の事をする場所」と割り切り、最低限の単位を取れればいいと考えていました。友人に誘われてテニスサークルに入ったもののテニスはほとんどせず、麻雀やディスコなどに時間を費やしていました。また、週3日は、都心のパブで深夜のアルバイトもしていました。大学3年生の時には、ダンスイベントを開催するためのイベントサークルを六大学の友人たちと立ち上げ、都内にある17のお店を貸し切り「FZ(Feel Z:世紀末を感ぜよ=六本木は世界を救う)パーティー」を企画・開催し、ユニセフに10万円を超える寄付をしました。招待者数は数千人規模にのぼり、当時の写真週刊誌「FRIDAY」にも取り上げられました。


 しかし、そのイベントでは、17会場合同で行ったオープニングレセプションパーティーの際に、クロークで預かった荷物が紛失するという重大なトラブルが発生しました。その弁償料を全て私たちが負担することになったため、イベント自体の収益は赤字となってしまいました。これらの経験によって、悪意を持つ人たちが慈善事業にチャレンジしている我々学生に近づいてきているような感覚を抱き、「別の形で社会活動をして収益を得よう」と考えるようになりました。そこで、自ら学習塾を開くことを決意しました。都内から横浜にかけて不動産屋さんを一軒ずつ回って場所を探していたところ、横浜市内の不動産屋さんが出資してくれることになり、学生の傍ら学習塾を立ち上げることになりました。経営面では大きな収益を上げるには至りませんでしたが、後々嬉しい知らせを受けることになります。それは、かつて英語を教えていた二人の小学生が中学生になったある日、既に卒業していた私宛に、それぞれがクラスで成績が一番になったとの感謝のハガキを送ってきてくれたのです。教育を通じて社会に貢献する手応えを感じた瞬間でした。



――学生の頃にファッション雑誌に載ったことがあるとか?

 大学生の頃、出版関係の方が大学に来られて「雑誌に出ませんか?」と声をかけられることがありました。そのご縁で『JJ』や『ViVi』などに読者モデルとして掲載されたことがあります。当時は好奇心の赴くままに、面白そうなことは迷わず挑戦していました。


――就職活動は?

 大学では学業をおろそかにしていたため単位も足りず、正直留年するだろうなと思っていました。就職についても深く考えていなかったのですが、友人の就職活動に付き合っている中で偶然にも国際証券から内定をいただくことができました。元々、株や不動産には関心があったため卒業できればぜひ入社したいと考えていました。とはいえ、卒業への壁は高く、最後は先生の自宅まで足を運び、直談判をしてどうにか卒業することができました。
 国際証券での最初の配属先は人事部でした。営業職を希望していた私にとっては正直やや拍子抜けのスタートでしたが、ここで得た経験は、のちに当社で人事関連業務を担う上で大いに役立つこととなりました。人事部での約1年半の勤務を経て本店営業部に異動となり、約2年間営業を担当しました。特に新規開拓の仕事には大きなやりがいを感じましたが、営業の現場は想像以上に厳しく、思うように仕事の成果が出せないことも多々ありました。そのような中で、単に『数字や利益』を追うのではなく『お客様に対して常に誠実であること』を徹底して心がけました。



――東栄ジャパンへの入社のきっかけは?

 私が国際証券に入社して3年ほど経った時、伯父から後を継いで欲しいという話がありました。当時欧米では、多くの外国人労働者が建設業や道路工事といった分野で重要な役割を担っており、私は予てから「日本においても将来的には外国人人材の活用が不可欠になるだろう」と感じていました。そんな中、伯父の会社は既に外国人人材を船上で活用していることを知っていたので、声がけいただいたことは有難い機会と思い、引き受けることにしました。また、営業の仕事を通じて経営者の方々と接する機会が多かったこともあり、自分自身がより早く経営に携われることに興味が湧いたことも決断を後押ししました。

 1991年1月に東栄ジャパンに入社し、最初は乗組員の交替手配や給与計算など、事務作業全般を担当していました。海運業界の知識は一切なく、右も左もわからない中で業務を通じて勉強する日々でした。数年後には、広島や今治のお客様を訪問する機会にも恵まれ、𠮟咤激励を受けながらも温かく迎えていただき、多くのことを学ばせていただきました。業績が思わしくない時期もありましたが、地道にお客様のもとへ通い、すぐに成果につながらなくとも信頼を積み重ねることを大切にしてきました。
 その後、2005年に伯父が他界し、私が社長に就任しました。当時は海運業界での経験が浅いことに強いコンプレックスがあり、一日も早く経営者として認められたい一心で必死に取り組みました。
――とにかく自分にできることは全てやる・他人に厳しさを求めるからには自分を律さなくてはいけない――そんな思いで過ごしてきました。


――人生の転機についてお聞かせください。

 伯父から当社を継いでほしいと私に打診があり、その後、伯父と伯母が東京の実家に来て両親に正式な申し入れをした時です。既に私が承諾したことについては事前に両親に話をしていましたが、両親は私の意思を尊重し、背中を押してくれたことに感謝しています。
 もう一つは妻との出会いです。友人の結婚式に参列するため、神戸から東京に戻った際、最寄り駅でタクシーを待つ列に並んでいた時に出会いました。偶然にも前職が同じ国際証券で、しかも退職日までまったく同じだったのです。



――まさに、運命の出会いですね!

 そうなのかもしれません。妻との出会い・結婚をきっかけに、私自身も大きく変化したと感じます。性格もとても穏やかになりましたし、いつも支えてくれている妻には本当に感謝しかありません。


――「座右の銘」についてご紹介をお願いいたします。

 座右の銘というわけではありませんが、いくつか意識している言葉があります。
 「愚直」という言葉は、元・国際証券社長の故豊田善一氏が、著書や社内の節目となる行事の場で、たびたび口にしていた言葉ですが、私自身、この言葉のとおりに行動することこそがお客様や社会への貢献につながると信じてきました。

 また、「備えよ常に」という言葉も、私が大切にしている言葉の一つです。子供の頃に所属していたカブスカウトで繰り返し教えられた言葉で、当時は深く考えずに聞いていましたが、今振り返ると、その精神が無意識のうちに自分の行動の軸になっていたように思います。どんな状況にも柔軟に対応できるよう、常に準備を怠らないことの大切さを実感しています。

 プライベートで大切にしている言葉は「座って半畳、寝て一畳」です。どれほど偉大な人物であっても、必要とする空間はごくわずかであり、皆その点では平等だと教えてくれる言葉です。どんな境遇に置かれていても、この言葉を胸に刻んでさえいれば、満ち足りた気持ちで暮らすことができ、最期も穏やかに迎えられると確信しています。



――最近感動したできごと、または夢や目標について教えてください。

 最近は感動することが少なくなってしまいましたが、2015年に東京マラソンを完走した時は感動しました。きっかけは、仕事で大変お世話になったお取引先様からのお誘いでした。それまで私はマラソンが大の苦手で、「マラソン愛好家の人たちはなぜ自ら好んで苦しい思いをするのか?」と走る人の気持ちが全く理解できませんでした。それでも出場を宣言し、2011年の年明けから練習を開始して、どうにかコンディションを整えて本番は6時間近くかかりましたが無事完走することができました。
 今の目標は、会社を安定して運営し、これまで当社を信頼し支えて頂いたお客様にお応え出来る次世代をしっかりと育成することです。そして人生の終盤には、自分らしい一面を出し、やりたいことを適当に楽しみたいです。最近始めた菜園、麻雀、ゴルフ、音楽、新しいこと、何もしないこと、何でもです。ちなみに、先日行われた息子の結婚披露宴では、社員とともにバンドを結成し演奏の魅力を改めて実感しました。




――思い出に残っている「一皿」についてお聞かせください。

 当社に入社後、仕事で訪船した際に韓国人船長に振る舞っていただいた「水キムチ」です。辛いものではないのですが、キムチの旨味を感じて大変美味しかったです。これをきっかけに、それまで辛いだけと思っていた食べ物(キムチやカレー、牛丼の七味など辛い物全般)が食べられるようになり、今では好きになっています。

 もう一品は、高校生の時よく訪れた、渋谷の公園通りにあった「カプリ」というイタリアンレストランの『シシリアン』というパスタです。ツナとナスが入ったトマトソースのスパゲッティで、料理を殆どしない私が自ら再現を試みたほどハマりました。お店はもう無くなってしまいましたが、結婚をしてからは妻がよく作ってくれるようになりました。




――心に残る「絶景」について教えてください。

 二つの雲海です。一つ目は、10年ほど前に羽田発ドバイ行きの飛行機の窓から見た雲海です。真夜中に目が覚めて、窓の外を見ると月明かりで照らされた青白い雲海が目に飛び込んできました。その雲の切れ目からはエベレストかK2ではないかと思わせる山の頂が顔を覗かせており、とても美しく幻想的な光景でした。あの景色は是非もう一度見てみたいです。
 もう一つは、安全航海祈願で登った石鎚山(愛媛県)の鎖場「三の鎖」で目にした雲海です。ほぼ垂直な崖の上で、下から登ってくる人の姿が雲で見えない状況でした。自分の足元に広がる雲海の様子を今でも鮮明に覚えています。美しくも少し恐ろしさを感じる光景でした。

 
【プロフィール】
萬 昌也(よろず まさや)
1964年生まれ 兵庫県神戸市出身
1987年3月
  慶応義塾大学 卒業
1987年4月
  国際証券株式会社 入社
1990年12月
  国際証券株式会社退社
1991年1月
  株式会社東栄ジャパン 入社
2005年1月より現職


■株式会社東栄ジャパン(https://www.toeijapan.co.jp/

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