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【マリンネット探訪 第55回】
お客様の声に応え、高めてきた設計力と技術力
根底に流れるのは船への深い愛情と熱意
< 第570回>2025年09月16日掲載 


内海造船株式会社
取締役社長
寺尾 弘志 氏













――1940年に創業し、国内向けのフェリーやRORO船を主力に、小型バルカーやフィーダーコンテナ船など、多様な船種の建造を強みとされている内海造船株式会社の寺尾 弘志社長です。内海造船の概要・特色について、ご紹介をお願いいたします。

 当社は1940年に瀬戸田船渠として創業し、1944年に瀬戸田造船を設立しました。1967年には日立造船の系列会社となり、1972年には田熊造船との合併により内海造船として新たな一歩を踏み出しました。当時は国内最大級の大型フェリーの連続建造を手掛けるなど、フェリー建造において多くの実績を重ねてきました。
 その後も体制強化を進め、2005年には日立造船グループのニチゾウIMCを吸収合併し、因島工場を新たに生産拠点として加えました。2012年には田熊工場を閉鎖し、修繕船事業を瀬戸田工場に集約。現在は瀬戸田工場と因島工場の2拠点体制で、多様な船種の建造に取り組んでいます。
 当社の特色は、国内向けを中心に多様な船種に対応できる点にあります。特に設計の難易度が高いフェリーやRORO船で培った技術力を活かし、ハンディサイズバルカーやフィーダーコンテナ船といった船種にも柔軟に取り組んできました。こうした経験の積み重ねが、幅広いニーズに応えられる体制づくりにつながっています。
 フェリーに関しては、運航する航路によって船主様のご要望が異なるうえ、乗船されるお客様の志向も様々です。当社ではそうした声にできる限り応える形で設計・建造を進めており、継続的にご発注いただけるよう、日常的なコミュニケーションや信頼関係の構築も大切にしています。特にフェリーは「家族を乗せたい」という当社への志望動機にもつながっており、営業や設計をはじめとする社員一人ひとりが、船への深い愛情と熱意をもって業務にあたっています。



――現在の2工場(瀬戸田工場・因島工場)の建造体制と受注状況とをお聞かせください。

 瀬戸田工場では、主に中小型フェリーやフィーダーコンテナ船、防衛省向け輸送船などを建造しており、因島工場は、当社の中でも比較的大型船の建造を得意としています。フェリーに関しては、以前は瀬戸田工場でのみ建造していましたが、2022年に竣工した宮崎カーフェリー様向けの1万4,000総トン型2隻(フェリーたかちほ・フェリーろっこう)は、初めて因島工場で建造しました。また、今年就航した商船三井さんふらわあ様向けのLNG燃料フェリー2隻(さんふらわあ かむい・さんふらわあ ぴりか)も因島工場で建造しました。これらは当社として最大船型となる1万5,600総トン型であり、初のLNG二元燃料船でもあります。
 また今年は、当社にとって約9年ぶりとなるバルカー建造として、新開発の40型(4万重量トン型)バルカー『40GC(ジェネラル・カーゴシップ)』の竣工を予定しており、因島工場を主体に建造を進めてまいります。

 受注状況については、両工場ともに約3年分の仕事量を確保しています。コスト上昇や為替変動に加え、近年は主機・機器の調達期間が長期化しているため、先の案件まで計画的に確保していく必要があります。そのため、少しずつでも着実に受注を積み上げていきたいと考えています。現在は、内航船やフェリーのリプレース需要に加え、RORO船、40型バルカー、フィーダーコンテナ船など、多方面から引き合いをいただいています。防衛省向け輸送船については、昨年までに2隻を引き渡し、今年も2隻建造予定です。さらに本年度中には新たに2隻の案件に応札を予定しており、現行計画では合計6隻で完了する見込みですが、今後も機会があれば対応していきたいです。
 引き続き両工場の強みを活かし、受注量の変動には工場間で調整を図りながら、協力体制のもと着実に建造を進めてまいります。



――LNG燃料船の建造実績もありますが、次世代燃料への対応はどのようにお考えですか?

 当社初となるLNG燃料フェリーの建造にあたっては、多くの関係者の皆様よりご支援・ご協力をいただき、無事に竣工を迎えることができました。現時点で新たな建造予定はありませんが、機会があれば取り組みたいです。
 また、当社は環境省および国土交通省による「ゼロエミッション船等の建造促進事業」に採択されており、2027年度までに瀬戸田工場の建造船台に大型クレーンを設置する計画も進めています。今後も、環境負荷の低減に資する船舶建造に積極的に取り組んでいきたいと考えています。
 現在具体的に取り組んでいる案件としては、バイオディーゼル燃料を使用する船舶の建造です。今後もさまざまな次世代燃料への対応が求められることから、当社としても前広に準備を進めていく方針です。その一環として、一般財団法人 次世代環境船舶開発センター(GSC)へ人材を派遣し、技術的な知見の習得にも努めています。



――フェリーや防衛省向け輸送船など、一般商船とは異なる設計面での難しさがあるのではないかと思います。御社の技術力や設計における強みについてお聞かせください。

 当社は、お客様のご要望に応え続ける中で、ノウハウや技術力を着実に蓄積してきました。特に設計部門では若手社員が増え、少しずつ力をつけてきていると感じます。今後は現場での経験を重ねることで、さらに成長してくれることを期待しています。
 これまで、設計で対応しきれなかった部分を現場が補完する場面もありましたが、そうした柔軟な対応力は現場の強みだと捉えています。また、設計と現場が互いに補い合い、連携を深めている点は、当社の大きな特長でもあります。とはいえ、現場に負担が偏りすぎることがないよう、今後は設計力そのものを高め、現場の実情を踏まえた設計ができる体制を整えていきたいと考えています。
 さらに、お客様の要望にただ応えるだけでなく、その奥にある「お客様が本当に求めていること」を見極め、先回りして提案できる力を養うことも目指しています。現在、当社の設計陣は約100名を擁し、その半数以上が20〜30代の若手です。まだ十分な経験を積みきれていない部分もありますが、着実に力を伸ばしており、今後の成長に大いに期待しています。



――造船業の人手不足に対する御社としての取り組みについてお聞かせください。

 当社も人手不足に悩まされていますが、新卒採用においては、設計部門で一定数の若手人材を確保できている状況です。一方で、現場の技能職については、なかなか人材が集まらない状況が続いていますので、近隣の学校を訪問しながら、地道な採用活動を続けています。特に当社では、フェリーの建造現場を実際に見ていただくことが大きなアピールポイントとなっているため、採用過程において工場見学を必須としています。実際に見てもらわないと仕事の魅力やスケール感を十分に理解してもらえないため、必ず現場に足を運んでもらうようにしています。おかげさまで、当社への応募者の志望動機として最も多いのは、「自分が関わった船に、いつか両親や家族を乗せたい」というものです。
 外国人材の採用にも積極的に取り組んでおり、現在はベトナム出身の方を約30名採用しています。今後は、さらに受け入れ人数を増やしていきたいと考えています。この他に、派遣人材も戦力として採用しています。従業員の皆さんに長く安心して働いていただけるよう、給与水準や福利厚生の見直しを含め、待遇改善にも取り組んでいます。また、定年を迎えた方で引き続き就業を希望される方には、これまでの経験を生かして活躍していただけるような環境づくりも進めています。



――これまでのご経歴についてご紹介をお願いします。

 出身は岡山県で、高校卒業まで地元で過ごしました。釣り好きの父の影響で、幼い頃から父と一緒に海や川へ出かけ、釣りを楽しんでいました。自宅から海までは自転車で片道1時間以上かかりましたが、泳ぎたい、釣りをしたい一心で頻繫に海へ足を運んでいました。海への強い思いは船乗りや漁師への憧れとなりましたが、高校時代に海に関する本で海洋開発を知り、興味をかき立てられました。これがその後の進路選択につながり、大学では船舶工学を専攻しました。
 学生時代は泳ぐことが得意でしたが、父の勧めで柔道をやっていました。大学2年生まで柔道を続けていましたが、留年を機に辞めることになりました。


 大学卒業後は日立造船に入社し、希望していた堺工場に配属となりました。実際の現場は想像していたオフィスワークとは大きく異なり、汗や泥にまみれる厳しい環境に大きな驚きを受けたことを覚えています。海洋構造物建造の工程管理を担当していたのですが、現場の方々には温かくご指導いただき、ものづくりの現場で多くの経験を積むことができました。
 堺工場は通算12年間を過ごしましたが、4年目に堺工場が別会社になり、大幅なリストラも行われました。同期の中には転職する人も少なくありませんでしたが、私自身に辞めるという選択肢は全く無く、「好きで入社した会社だから続けよう」と心に決め、残ることを選びました。その後の8年間は日立造船堺重工業の一員として、海洋分野とは全く異なる鉄骨や橋梁の製造に携わっていました。

 その後、日立造船の有明工場に異動しましたが、お世話になった方々と離れるのはとても辛いものでした。有明では7年間勤務し、2002年のユニバーサル造船発足に伴い東京へ異動しました。
 当時は日立造船とNKK(日本鋼管)の製造部門をいかに融合させるかが大きな課題で、私は経営企画部の商船事業本部担当として、工場間の役割分担の検討を進めていました。社内では「工場の個性を活かさなければ強みが削がれてしまう」という認識が共有されており、開発から受注まではNKKが主体となり、各工場ではそれぞれの強みを尊重する方針が取られていました。その過程では、日立造船とNKKの文化の違いを実感しましたが、とりわけNKKが方向性を明確に打ち出し、一貫して進めていく姿勢には大きな学びを得ました。
 その後、津工場(当時NKK)に船殻計画課長として異動しましたが、有明とは違い知っている人も少なく苦労しました。ひたすら議論と調整を重ねる日々でしたが、その後は本社の開発設計部や有明工場で勤務し、現場の品質向上と管理体制の確立に尽力しました。
 2014年には、ブラジルのアトランティコスル造船に出向し、アフラマックスタンカーやドリルシップの建造支援を担当しました。約1年3カ月の滞在でしたが、ペトロブラスの汚職や原油価格の低迷も重なり、事業環境は非常に厳しい状況でした。
 帰国後の2015年4月にJMU(ジャパンマリンユナイテッド)に帰任し、有明事業所で品質保証部長を務め、2018年1月に内海造船に入社しました。当時の現場は、従業員が息つく間もなく働き、設計の不十分な部分を現場が補う状況で、土日出勤も常態化していました。私自身も「このままでは体力が持たない」と強い危機感を抱き、設計と現場の情報共有を強化する体制づくりに着手しました。課題を積極的に共有し、設計段階での検討不足を減らすことで、現場の負担を軽減することを目指しました。働き方改革により労働時間や勤務形態に制約はありますが、設計部門は着実に力をつけています。さらに現在では、営業部門とも連携し、受注段階から設計負荷を考慮した対応が可能になっています。その結果、現場の状況も徐々に改善してきました。



――会社の合併など、大きな変化を経験される中で、「辞めよう」と考えたことは?

 今振り返ると、日立造船入社当時が最も辛かったように思いますが、それでも一度も辞めたいと考えたことはありません。私は決して器用なタイプではなく、立ち回りも得意ではありませんが、逆にそれが粘り強さにつながっているのかもしれません。環境は大きく変わりましたが、子どもの頃からの願いであった「海や船に関わる仕事」ができていることに幸せを感じています。


――社長に就任されて1年経ちます。これまでを振り返っていかがですか?

 まだまだ取り組むべき課題は多くありますが、少しずつ良い流れになりつつあると感じています。関係者の皆さまの信頼を裏切らないためにも、事業を着実に継続していきたいと考えています。また、皆さまから頼られる存在でありたいですし、若い人たちが「ここで一生働きたい」と思える会社にしたいです。


――人生の転機についてお聞かせください。

 入社して間もない頃の経験です。日立造船に入社し、建造工程を計画通りに進めるための工程管理を担当していました。計画通りに進まない現場に対して工程の遅れを指摘したところ、ある方から「現場をきちんと見ているのか?」とお𠮟りを受けました。その方は、私が入社後の研修でとてもお世話になった方でした。
 現場も見ないまま意見していた私はハッとし、現場の実情を理解しないまま机上の判断で意見していたことに気づかされました。以来、私は自ら現場に足を運び、状況を把握することに努めるようになりました。現場では、作業員の方々が悩みながらも工夫を重ね、日々の業務に真剣に取り組んでいました。その姿に触れ、現場の声にしっかり耳を傾けることの大切さを強く実感しました。次第に現場の方々との距離も近くなり、お互いが考えていることがわかるようになり、意思疎通がしやすくなっていきました。入社直後にこの経験ができたことは、私にとってその後の仕事への向き合い方に大きな影響を与えました。



――「座右の銘」についてご紹介をお願いいたします。

 諦めずに最後まで努力することです。何事も最初からうまくいくものではありません。私自身、柔道の経験を通じてそれを実感してきました。最初は失敗ばかりで、試合でも負け続きでしたが、努力を重ねるうちに少しずつ成果が現れ、継続することで成長を実感できるようになりました。
 粘り強さは学生の頃からの信条ですが、その反面、頑固で融通が利かない一面もありました。高校生の頃、校則に明記されていないことを理由に、髭を剃れと言われても反発していたのは、その典型かもしれません。



――最近感動したできごと、または夢や目標について教えてください。

 若手社員が一生懸命に取り組んでいる姿を見ると、心を動かされます。会議やメールでのやりとりからも、その熱意が伝わってきて、とても嬉しく感じますし、これからの成長がとても楽しみです。
 個人的な夢は、魚がたくさん泳ぐ豊かな海に戻ることです。近年は魚が減っていると耳にしますが、再び多くの魚が戻るような豊かな海になってほしいと願っています。最近は釣りや海で泳ぐ機会も減ってしまいましたが、高校生の頃に読んだ本にあった「泳いでこそ、海の素晴らしさがわかる」という言葉は、今も心に残っています。これからまた海に足を運び、その魅力や豊かさを感じたいです。








――思い出に残っている「一皿」についてお聞かせください。

 鰆(さわら)茶漬けです。子供の頃から家庭でよく食べてきた味で、地元・岡山では比較的一般的な料理かもしれません。鯛茶漬けのように、刺身の鰆をお茶漬けの具にするのですが、熱いお茶を注ぐと表面がほんのり湯引きされて、旨みが引き立ちます。そこに少量の醤油とワサビを添えて食べるのが大好きです。今でも瀬戸田で鰆の刺身を見つけるとお茶漬けで食べています。
 おすすめのお店は、地元・岡山城の近くにある「食堂 やまと」のラーメンです。普段はあまり外食をしませんが、地元に帰省した際には、時々立ち寄っています。中学・高校時代には、釣りの帰りに父と一緒に訪れた思い出深いお店でもあります。今では人気店となり、休日はなかなか入れないこともあります。



――心に残る「絶景」について教えてください。

 大学生の頃に1人旅で訪れた与那国島の海です。浅瀬の先に出て水中に潜ると、真っ青で透明な海の中にはたくさんの魚がいました。波もあり、サメが来るかもしれない恐怖もありましたが、それ以上に透明な海の美しさに圧倒されました。その時の景色は今でも忘れられません。
 
【プロフィール】
寺尾 弘志(てらお ひろし)
1958年生まれ 岡山県出身
1983年3月  東京大学 工学部 船舶工学科 卒業
1983年4月  日立造船株式会社 入社
2002年10月  ユニバーサル造船株式会社 転籍
2013年1月  ジャパンマリンユナイテッド株式会社 転籍
2014年1月  ブラジル アトランティコスル造船所 出向
2015年4月  ジャパンマリンユナイテッド 帰任 商品事業部 有明事業所 品質保証部長
2018年1月  内海造船株式会社 執行役員 就任
2019年6月  取締役 新造船事業本部長兼瀬戸田工場長 就任
2021年4月  常務執行役員 就任
2024年6月より現職


■内海造船株式会社(https://www.naikaizosen.co.jp/

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