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【マリンネット探訪 第56回】
石油輸送を基盤に多角展開
長崎に根ざし、地域と人と共に育む100年企業へ
< 第571回>2025年10月14日掲載 


松藤グループ
代表
松藤 章喜 氏













――1943年の創業以来、海運並びに陸運による石油輸送事業を中核に、外車販売事業やホテル事業など、グループ11社を通じて多角的に事業を展開されている、松藤グループ様の松藤 章喜社長です。松藤グループの概要・特色について、ご紹介をお願いいたします。

 当社の始まりは、私の祖父・松藤渉が1943年に創業した海運業に遡ります。祖父は戦時中に石油会社へ勤務し、戦後は長崎港で小さな船にドラム缶を載せて石油を運ぶ仕事を個人で営み、その過程で松藤商会を設立しました。会社設立後の1949年には同社初の油送船を建造し、1950年には松藤商事を設立して陸運業にも進出しました。陸運業では九州地区を中心に事業を拡大し、1956年にはタンクローリー輸送も開始しました。
 石油輸送が海陸両面で拡大する中、長崎市平和公園近くの旅館を取得したことを機にホテル事業へ参入。その後も飲食業や保険業など事業の多角化を進めました。1985年には、当時販売網拡大を進めていたBMWジャパン様からお声掛けをいただき、自動車ディーラー事業も開始しました。2020年には法人設立70周年を迎え、現在松藤グループは、石油の海上輸送事業ならびに陸上輸送事業、油槽所運営、防災事業、ホテル事業、ディーラー事業、保険業など、事業の異なる全11社で構成されています。
 弊社グループの事業の特徴は、油商売と水商売という異質なのものをグループ内で組み合わせていることです。石油輸送にとどまらず、より広い視野で社会に貢献したいとの思いから、これまで多角的にビジネスを展開してきました。中でも海運と陸運はいずれも石油を扱う事業であり、顧客が間接的につながっていることも多いので、様々な場面で相乗効果を実感しています。



――創業の原点でもある石油海上輸送事業の概要についてお聞かせください。また、脱炭素への対応といった業界共通の課題に対する、御社の取り組みについてお聞かせください。

 グループの海運事業は、1965年に松藤商事(当時)から分離して松藤海運となり、2008年にエムエスケイと合併し、現在はエムエスケイ海運事業部のもとで展開しています。北海道から沖縄まで日本各地の港を網羅し、国内の製油所(元売り)から発電用やその他需要家向けなど、各油槽所に海上輸送しています。
 1971年には、当社が三菱石油(現:ENEOS)の一次請けオペレーターとなり、船隊の増強と大型化を図りましたが、1990年代後半以降、石油元売り大手の合併などによって業界再編が進み、かつて13社あった元売りは大手3社に集約されました。これに伴い、内航油送船業界にも再編の波が押し寄せ、当社も減船を余儀なくされました。その結果、2012年には当社船隊は3隻まで減少しました。しかし石油輸送は当社の祖業であり、事業を継続・発展させたいという思いから船隊の増強に努めました。2019年には、内航海運業から撤退した競合他社の船を取得する機会にも恵まれ、現在では建造中の1隻を含め、保有船は7隻(白油油送船:4隻、黒油油送船:3隻)、用船が2隻の船隊となっています。
 足元ではエネルギーの変遷とともに多様な代替燃料が検討されています。もちろん当社が単独でできることには限りがありますが、荷主やオペレーターと力を合わせ、国内生活を支えるインフラの一翼を担い続けたいと考えています。そのためにも、今後も事業を継続し、社会に貢献していきたいと考えています。



――人材確保への取り組みについてお聞かせください。

 当社の陸上職は約10名、海上職が約90名です。船隊維持のためにも船員の確保は喫緊の課題であると考えており、労働環境の改善には積極的に取り組んでいます。特に働きやすさの向上や上位職の教育方法の見直しなど、船内融和を意識した施策を進めています。ソフト面での改善以外にもハード面の改善も進めています。船のリプレースを計画的に進めており、2027年には全船が新造船となる予定です。より快適で安全な労働環境を整えることで、船員が安心して働ける環境づくりを推進しています。
 新卒採用では、グループ全体のイメージ向上に力を入れており、SNSを通じた情報発信も積極的に展開しています。海運事業部には、毎年平均して5名程度が入社しており、現役社員の紹介や口コミを通じて優秀な人材が集まっている状況です。
 一方、技術の伝承においてはベテラン従業員も重要な役割を担っています。経験豊富な人材と若手を結び付ける仕組みを整え、次世代へ技術とノウハウを確実に引き継いでいきたいと考えています。



――今後のグループ全体の展望のなかでも、特にエネルギー輸送や物流の領域において、御社として注力したい取り組みについてお聞かせください。

 石油輸送は今後も社会インフラを支える事業として存続すると考えています。人口減少や脱炭素化を背景に、販売数量が減少する可能性はあります。一方で燃料の多様化が進む中、新たなエネルギーにも柔軟に対応していきたいと考えています。あわせて当社の新造船建造においては、水素化合物(MCH)を運べるよう、ケミカル仕様への対応も進めていきます。
 エネルギー転換については、脱炭素のみに偏るのではなく、「エネルギーをどう使うか」が重要だと考えています。現段階で化石燃料の使用をゼロにすることは難しい状況です。そのため、炭素を一律に悪とみなすのではなく、経済的負担が過度に増えないよう、無理をせず現実的な解決策をとりながら、いかに効率的に化石燃料を活用するかが大切だと考えています。
 今後エネルギーミックスの構成比やその中身は変化していくことが予想されますが、一定数の化石燃料は残っていくことが予想されますので、その動きに適応しながら、私たちのビジネスも継続していきたいと考えています。



――これまでのご経歴についてご紹介をお願いします。

 長崎で生まれ育ち、高校生まで地元で過ごしました。


――どんな学生時代でしたか?

 中学生まで器械体操部で活動していました。中学生の頃に既に身長が176cmもあったので、体操選手としてはかなり大柄でした。高校には器械体操部が無かったので勉強にいそしんでいました。大学ではバスケットボールのサークルに入りました。


――家業を意識して進路選択されたのですか?

 家業は兄が継ぐと思っていたので、私は自分の興味に従って進路を選んできました。ヨット部出身の父が社内にヨット部を作り、そのイベントに参加することもありましたが、家業に対する興味はほとんどありませんでした。大学では経営学を専攻し、会社経営やコンサルティングに関心を抱いたことから、卒業後は三和銀行に入行し5年ほど勤務しました。その後、MBA取得のために渡米し、ミシガン州立大学大学院で経営学を学びました。帰国後は福岡のシステム系ベンチャー企業に就職しましたが、改めて自分の人生を見つめ直すなかで「地元長崎に貢献したい」という思いが強まり、父に相談して帰郷を決意しました。



 2003年に当社グループへ入社しましたが、社内には解決すべき課題が山積みでした。社員が不満を抱えながら働いている状況に危機感を覚え、当時のトップダウン型の体制を改める必要性を強く感じました。課題解決に取り組む中では、当時社長であった父と意見が衝突することもありましたが、社員が主体的になり、一人ひとりが目的意識を持って将来を共に描ける体制が不可欠だと考え、社内の関係者とも丁寧な対話を心掛けました。その後、父の急逝を受け、2011年に社長へ就任しました。




――急な出来事でしたが、戸惑いはありませんでしたか?

 当時父は長崎商工会議所の会頭を務めており、会社の実務の大半は私が担っていたため、大きな混乱には至りませんでした。しかし同時期に私の妻の病気が判明し、いくつもの出来事が重なり大変な時期でした。
 社長就任後は意思決定のスピードが上がり、やった分だけ成果につながる手応えを感じられるようになりました。困難な状況もありましたが、仕事はやった分だけ必ず報われるという実感が私にとって大きな支えとなり、前に進む力となりました。



――社長就任後に特に意識して取り組まれたことは?

 社長の役割は、社員が納得できる道筋を示し優先順位を定めることだと考えています。自分が経営のハンドルを独りで握っているという感覚は無く、常に中心にあるのは社員であり、その責任を引き受けるのが社長の務めだと思っています。三和銀行勤務時代、あるシステム開発プロジェクトで、若手からベテランまで20〜30名のプログラマーをまとめる役割を担当する機会がありました。当時トラブル対応に追われる中で、分からないことは自ら調べて理解し、そのうえで相談・共有すること、そしてメンバーに寄り添う姿勢の大切さを学びました。あの経験が、現在の社員との向き合い方にも大きく活きていると感じます。


――人生の転機についてお聞かせください。

 社長に就任した時です。自分の責任の大きさや、それに対する覚悟が生まれました。それまでは父が経営を担っており、自分の思いをすぐに形にできないもどかしさがありました。しかし社長就任後は、すべての判断と結果に自ら責任を負う立場となり、経営者としての本当の覚悟が芽生えたと感じています。
 また、アメリカ留学時代の経験も大きな転機となりました。慣れない土地で言語の壁もある中、特に精神的な強さが鍛えられました。現地で一緒に学ぶアメリカ人は皆優秀でプライドも高く、日本人に対して厳しい視線が向けられていました。そのような環境で必死に食らいつきながら勉強を続けた経験は、今振り返っても「精神力を培った時間」という印象が強く残っています。



――「座右の銘」についてご紹介をお願いいたします。

 「楽観的に構想し、悲観的に準備をし、楽観的にことにあたる」です。何かに取り組むときは、まず制限を設けずに自由に発想します。そして実行の段階では、あえて悲観的に捉え、リスクを徹底的に洗い出して周到に準備します。最後は信じて行動に移します。特に社長就任後は、この言葉を強く意識するようになりました。


――最近感動したできごと、または夢や目標について教えてください。

 夢は次世代へとこの会社をつなげていくことです。私が80歳を迎える年に当社は100周年を迎えます。その節目までに会社がさらに成長し、次の世代へとしっかりとバトンを渡したいと考えています。
 一方で、個人的な夢は「長崎検定1級」に合格することです。地元・長崎の歴史や文化が大好きで、今年2級の試験を受けましたが、合格まであと一歩でした。私は長崎商工会議所観光部会の部会長を務めており、合格者に認定書を渡す役割も担っています。もし自分が1級に合格できた暁には、自分自身に合格証を手渡す瞬間を味わってみたいと思っています(笑)。1級合格者は毎年1〜3人と非常に狭き門ですが、いつの日か必ず合格したいと考えています。



――長崎の良さとは?

 長崎は歴史的にも幕末から大正にかけて世界各国との交流が盛んな場所でした。戦争の時代であっても、長崎に暮らす外国人と地元の人々は良好な関係を築き、互いに支え合ってきました。長崎の人々には、昔から多様な人々を受け入れる寛容さがあると感じます。イギリス、フランス、ポルトガル、ドイツ、デンマークなど、さまざまな国の人々が住み、文化的にも豊かな多様性が息づいています。戦時中においても彼らは長崎の経済発展に大きく貢献してきましたので、長崎には多様な人々と共に歩み、互いを尊重し合う文化が根づいたのだと思います。


――思い出に残っている「一皿」についてお聞かせください。

 京都にある「鉄板創作 りあん」の鉄板焼きです。厳選された食材の鉄板焼きを楽しむことができ、何を食べても格別でした。地元で好きなお店は長崎の「宝雲亭本店」の一口餃子です。長崎一薄いという皮に包まれた一口餃子は何個でも食べられるほどやみつきになる味です。


 ちなみに、長崎と言えばちゃんぽんや皿うどんですが、当社グループのANAクラウンプラザホテル長崎グラバーヒルのホテル内「レストラン パヴェ」で提供しているちゃんぽんや皿うどんもおすすめです。今年4月からは、動物性食材を一切使用していない、長崎ちゃんぽんと皿うどんがメニューに加わりました。ヴィーガンやベジタリアンのお客様、乳製品にアレルギーのあるお客様からもご好評いただいています。




――心に残る「絶景」について教えてください。

 1つ目は、地元長崎市内にある善長谷(ぜんちょうだに)教会から見た夕焼けです。友人に誘われて連れて行ってもらったのですが、大変感動しました。夕日と一言で言っても、時間や天気など複数要因に左右されるものなので、綺麗な夕日に出会えた時は、特別な喜びがあります。
 2つ目は、沖縄本島南部、南城市にある知念岬(ちねんみさき)公園から眺めた景色です。太平洋を見渡せる高台からの眺望は圧巻で、「パワースポット」という説もあるようですが、自然の静けさとダイナミックさが共存する場所でした。



【プロフィール】
松藤 章喜(まつふじ あきよし)
1970年生まれ 長崎県出身
1994年3月
     一橋大学 卒業
1994年4月
     株式会社三和銀行 入行
1998年9月
     株式会社三和銀行 退行
2002年5月
     米国ミシガン州立大学経営学部大学院 修了(MBA取得)
2002年5月
     株式会社エーエスピーランド 入社
2003年10月
   株式会社エムエスケイ 入社
2011年11月より現職


■松藤グループ(https://www.matsufuji-gr.com/

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