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【マリンネット探訪 第57回】
人との繋がりを大切に、60年の歩みとこれからの挑戦
< 第572回>2025年11月10日掲載 


笠井工業株式会社
代表取締役社長
木曽 太一 氏













――設立から60年にわたり、船舶艤装品や産業機械部品の製造を手掛けられている笠井工業株式会社様の概要・特色について、ご紹介をお願いいたします。

 笠井工業株式会社は1964年に創業し、現在は私が3代目の社長としてその歩みを受け継いでいます。
 創業当初は、三菱重工業三原製作所向けに、新聞を印刷するための輪転印刷機部品の製造を主力事業としていました。紙媒体の情報商品需要が盛んだった時代、弊社は新聞産業の一端を担い、その発展に寄与してきました。
 その後、時代の流れとともに取引先の幅が広がり、尾道造船からの依頼を契機として船舶艤装品の製造を開始しました。現在の事業構成比は、印刷・段ボール関連製品が6割、造船関連製品が4割となっています。
 造船関連製品では、電気系の小物部品や機関室に設置される補機台(ポンプ台など)の製作を中心に手掛けています。尾道造船向けがその中心を占めますが、近年は他の造船所からの受注も増えつつあります。
 また、梱包材として用いられる段ボールの製造機械は、コロナ渦を背景にネットショッピングやフリマサイトの利用が増加したことから、需要が急増しました。現在はその需要が一服し、市場も飽和状態にあるので、当時と比べると落ち着いています。
 一方、新聞の輪転機については、今年度に製作する1台を最後に、主要顧客である三菱重工がこの事業から撤退することが決まっています。そのため、今後は印刷分野の受注が減少していく見通しであり、その分をほかの事業で補っていく必要があります。



――現在注力している事業や、今後の展望についてお聞かせください。また、近年御社が重要と捉えている課題がございましたら、お聞かせいただけますでしょうか。

 先ほども触れましたが、当社にとって新聞輪転機事業の終了は大きな転換期を迎える出来事です。船舶関連製品では、尾道造船以外の造船所からの依頼も少しずつ増えているため、今後はこの流れを着実に広げていきたいと考えています。
 私自身、当社に入る前は造船所で25年間勤務していました。また、同じタイミングで入社した現専務も造船関連の仕事に長く携わっていましたので、船舶分野は得意領域です。現在は、造船所勤務時代にお世話になった舶用メーカー各社との繋がりを生かし、新たな事業にも着手しています。具体的には、日本の舶用メーカー製品を中国の造船所向けに販売するほか、中国のエンジニアリング会社が設計したハッチカバーを日本の造船所や船主向けに紹介・提案しています。
 造船所勤務時代の25年のうち約20年を資材・調達部門で過ごしましたが、業界内の繋がりが近いこともあり、舶用メーカーの皆さまと深い関係を築くことができ、今も継続してお話できることに感謝しています。全く新しい分野にいきなり挑戦して成功するのは容易ではありませんが、これまで培ってきた船舶に関する知識や人の繋がりを生かし、船舶関連分野を事業の中心に据えることで、事業全体の安定化を図りたいと考えています。また、長年お世話になってきたメーカーの方々に少しでも恩返しができればと思っています。
 船舶関連製品の製造を拡大していくためには、人員と設備の再配置が課題と考えています。小物中心の新聞輪転機向けの加工と、大型構造物を扱う船舶向けの加工では、求められる精度や工程が大きく異なるためです。既存の人員と設備でどこまで対応できるか、今後どの程度まで既存の設備を船舶製品用の設備へ更新していくべきかを見極めながら、従業員の技能習得を進めていきたいと考えています。また、設備の活用方法も見直し、より効率的な生産体制の構築を目指しています。



――人材育成や職場環境づくりにおいて、普段から意識されていることや取り組まれていることがあればお聞かせください。

 当社では、人材の確保と育成を重要な課題と位置づけています。現状、人員数は足りていますが、社員の多くが60歳を超えており、中には77歳で現役として活躍している方もいます。そのため、製造技術を次の世代へ継承していくことが重要です。しかし、少子高齢化の影響により、特に20代・30代の若手社員の採用は難しい状況が続いています。製造業全体で人手不足が深刻化する中、新たな担い手を確保することは容易ではありません。これまで実績はありませんが、将来的には外国人の方の採用も視野に入れています。
 一方で、最近は60歳以上の経験者に限定して採用を行うなど、現実に即した形での体制づくりも進めています。



――60歳以上限定で募集をするというのは、他にない取り組みだと思います。応募や採用はありましたか。

 数名の方にご応募いただき、今年7月には1名の採用が決まりました。現在は技術面で大きな戦力となっています。
 長年の現場経験を持つ人材は、即戦力として非常に貴重な存在です。熟練した技術を備えた人材が加わることで、現場の安定化や生産性の向上が期待できます。また、今回の取り組みを通じて、定年後も就業意欲が高く、仕事に前向きな方が多いことを改めて実感しました。同時に、こうした方々が活躍できる場を整えていくことの重要性を強く感じています。



――これまでのご経歴についてお聞かせください。

 出身は尾道で尾道造船の近くです。生まれてから高校生まで地元尾道で過ごしました。学生時代は野球漬けの毎日で、小学生時代は地元の少年野球チーム、中学生時代は三原のシニアリーグに所属し、ポジションは投手でした。地元の少年野球チームの監督は、当時尾道造船に勤務されていた忰山(かせやま)さんという方で、地元の野球界では有名な指導者でした。教え方が的確で、私が所属していたチームを80試合中4試合しか負けない強豪チームに育ててくださいました。当時は、のちに巨人入りした二岡選手や、阪神の福原選手と試合をしたことも覚えています。その試合は惜しくも負けてしまいましたが、1対0という結果で、とてもいい勝負でした。
 尾道東高校に進学した当時は、『スラムダンク』が流行っていたこともあり、野球部ではなくバスケットボール部に入部するか迷いましたが、最終的には野球部の監督からの強い勧誘を受け、野球部に入部することになりました(笑)。中学時代は先輩・後輩の関係が非常に厳しく、時に厳しい指導も受けましたが、毎日野球で汗を流す日々を送っていました。
 甲子園/プロ野球選手を目指した時期もありましたが、年齢を重ねるにつれ現実的ではないと感じ、高校は野球の強豪校ではなく、地元の進学校に進みました。
 大学は福山大学に進学し、経済学を専攻しました。当初は関西の大学に進学するつもりで、すでに合格もしていたのですが、入学直前の1995年1月に阪神淡路大震災が起きました。家族からの心配の声もあり、関西の大学は断念せざるを得ませんでした。ちなみに福山大学でも軟式野球を続けていました。
 大学3年生になり、本格的に就職活動を始めましたが、当時は就職氷河期のど真ん中で、就職先がなかなか見つからない厳しい時代でした。私は生まれも育ちも尾道でしたので、就職先に関西や東京という選択肢はなく、地元尾道か広島県内で働きたいと思っていました。そんな時、小学校時代にお世話になった忰山さんから、「尾道造船を受けてみないか?」とお声掛けいただいたのです。



――就職のきっかけは小学校の頃にお世話になった監督だったのですね!

 忰山さんは、小学校卒業後も、中学・高校での野球の試合をたびたび観に来てくださいました。就職活動の際には、就職氷河期の中で自分の進むべき方向が見えず、不安を抱えていた私に声をかけてくださり、地元・尾道で就職するきっかけをくださいました。まさに私の恩人です。小学校時代から、まるで我が子のように気にかけてくださっていたことに、感謝の気持ちしかありません。



――忰山さんの誘いで尾道造船に入ったとのことですが、尾道は海や船が身近な存在だったと思います。将来造船所に勤めるかもしれないという考えはあったのでしょうか。

 全く考えていなかったです。大学は経済学部を専攻していたので、漠然と将来は総務や営業、経理といった職種に進むのかなと考えていました。一方で、尾道造船は子供の頃からあまりにも身近な存在だったため、逆に就職先として意識したことはなかったです(笑)。


――尾道造船ではどのような業務を担当されていたのでしょうか。

 尾道造船入社後の3年間は、総務部で経理を担当していました。製造業では原価計算が要であり、間接費も含めた原価の仕組みを理解できたことは、その後の業務でも大いに役立ちました。学生の頃から数字への苦手意識があったものの、製造業の実務としての経理は学びが多く、大変有意義な経験でした。
 その後は資材(調達)部に異動し、13年間従事しました。資機材の購買はもちろん、時間や間接費も含めて「コスト」をどう捉えるかという視点が求められ、コストダウンの考え方を現場で徹底的に叩き込まれました。この期間で培ったコスト意識は、現在の会社経営にも役立っています。
 2015年4月からは新造船営業に異動しました。長く資材に携わってきた私にとって全く異なる領域で、英語を使う場面も多く、当初は戸惑いもありました。それでも、業務の幅を広げる貴重な機会となり、造船所の品質要求や現場の事情などを踏まえ、多角的かつ客観的に物事をとらえることの重要性を学びました。



――25年間在籍された尾道造船で特に印象に残っていることがありましたらお聞かせください。

 色々なことがありましたが、2015年4月に配属された営業部で過ごした1年間は、とても濃い時間でした。配属されて4か月後には6万重量トン型のバルクキャリアを4隻任せられることになり、初めは、海外船主から派遣される外国人建造監督の方との言語の壁や関係構築に不安がありました。しかし、監督さんは気さくな方ばかりで、週末になると「遊びに行くぞー!」、「バーベキューしよう!」と声をかけていただき、とても可愛がっていただいたことが印象に残っています。ただ、その状況においてもお客様であるという意識は忘れず、いかにご要望に応えられるかというプレッシャーを常に感じていました。また、資材部に居た頃は、船がどのような流れで契約に至るのか、スペックの決定からテクネゴ(テクニカルネゴシエーション)、最終船価の決定に至るまで、その一連の過程の大変さを理解していませんでした。営業から追加資材の見積もりを求められた時などは、少し面倒だなと思っていたほどです(苦笑)。しかし、自分が営業を経験したことで、いかに重要な会話であったのかがよくわかりました。なので、資材部に戻った時には、「営業から聞かれたことはすぐ答えてあげるように」と後輩たちに教えました。
 営業を経験した後は、設計部開発設計課で約2年半過ごしましたが、25年の尾道造船人生で一番面白いと感じた部署でした。




――どういったところが面白いと感じたのでしょうか。

 営業でテクネゴの大変さを知っていましたが、実際のハードネゴ(ハードネゴシエーション)は、開発設計部が行います。よりリアルにその船のスペックの決定やメーカー選定(価格交渉も含め)に関わり、本来、船の計画や開発での知識がない私が、開発設計の仲間達と一緒に仕事が出来たこと、そしてそれまでの知識や経験が開発設計で生かせたことはとても面白く、やりがいを感じました。
 当時は造船不況でしたが、現在も建造が続いている40BC(4万重量トン型バルカー)の開発に関わることができたことは、貴重な経験でした。造船不況でコスト削減が求められる中、仲間とともに何度も議論を重ねて最適解を模索しました。また、資材部や営業で培った知識や経験、それまで築き上げてきた人脈が大いに役立ち、自分のこれまでの歩みがしっかりとつながっていることを実感しました。



――笠井工業の社長に就任されて1年が経ちますが、これまでを振り返っていかがですか。

 着任当初の心構えは、「まずは会社全体の把握を最優先にすること」でした。規模の大小にかかわらず、自らがすべてを理解する立場であるという意識のもと、一つひとつ丁寧に確認を重ねていきました。
 まだ着任して一年余りですが、印刷・段ボール関連事業と造船関連事業という二つの分野に関わる中で、尾道造船で培った思考力や対応力が私自身の強みになっていると感じています。
 野球で培った粘り強さ、経理で学んだ原価の基礎、資材部での徹底したコスト意識、そして営業で鍛えられた現場感覚と対外対応力――それぞれの時期に身につけたものが、今の意思決定や現場への向き合い方につながっていると感じます。



――人生の転機となった事柄についてお聞かせください。

 最初の転機は、少年野球の監督、忰山さんとの出会いです。少年野球チームで指導を受けてからもそのご縁は長く続き、尾道造船への入社に繋がりました。
 二度目の転機は、尾道造船を退職する決断を下した時です。2020年10月、約2年半ぶりに資材部へ戻ると、部署の体制が大きく変わっており、人員の入れ替えや業務の再構築に追われる日々が続きました。加えて、物価上昇の影響で調達環境が厳しさを増し、対応に奔走する毎日でした。そうした中で、自身の役割を一区切りと捉え、2023年末に退職を決意しました。
 三度目の転機は、笠井工業との関係が始まったことです。前職の退職を決めた後、仕事の関係で同社を訪ねたことをきっかけに事業承継の相談を受けて話が進展しました。



――「座右の銘」についてご紹介をお願いいたします。

 「一人では成し得ない」です。自分一人でできることには限界があり、周囲の皆さまに支えられて物事は成り立つ――その実感を常に忘れないようにしています。だからこそ、日々の仕事では感謝の気持ちを持つことを心がけています。
 この考え方は、人と会って話すことを大切にする姿勢にもつながっています。人と向き合い、対話を重ねることで縁が生まれ、仕事も広がっていきます。動きながら対話を重ねなければ何も始まらない――その思いで日々の業務に取り組んでいます。
 また、前向きに物事を受け止める姿勢も大切にしています。私自身「なるようになる」、「なんとかなる」という気持ちで、どんな状況でも最善を尽くすことを意識しています。



――最近感動したことや、今後の夢や目標についてお聞かせいただけますでしょうか。

 息子が中学の軟式野球のクラブチームでの試合で決勝打を放った場面に感動しました。週末は試合を見に行くことが多いのですが、現地でその感動的な瞬間に立ち会うことができ、強く胸に響きました。普段はあまり感情を表に出すタイプではないですが、私以上に周りのお父さん達が喜んでくれて、このときばかりは本当に嬉しかったです。
 夢は、将来時間に余裕ができたらクラブチームで子供たちの指導に関わることです。自分自身、野球とともに人生を歩み、人生を変えてくれた監督にも出会いました。草野球は今でも続けていますし、野球に携わり続ける形の一つとして指導は面白いと思っています。
 仕事面での目標は、当社の従業員に「この会社で働くことができてよかった」と思ってもらえる会社にしていくことです。これから入社してくる人たちにもそう感じてもらえるよう、日々の取り組みを積み重ねていきたいと考えています。
 ちなみに直近の個人的な目標は、子供の受験が落ち着く春休みに家族全員で旅行に出かけることです。長女は大学生、次女は高校生、長男は中学生で、家族全員の予定が重なる機会が少ないため、春休みを「ラストチャンス」と捉えて実現したいと話しています。



――思い出に残っている「一皿」についてお聞かせください。

 よく通っている地元のお店「チャコール」の鶏レバーのコンフィが、特に印象に残っています。オリーブオイルに塩・ハーブ・スパイスを加えて低温で2~3時間ほど火を入れる料理で、仕上がりが非常に良く、ぜひおすすめしたい一品です。この料理には赤ワインを合わせるのがいちばんです。ちなみに、店主は私の学生時代の野球部の後輩で、開店当初から通い続けています。



――心に残る「絶景」についてお聞かせください。

 瀬戸内海で釣りをしているときに目の前に広がる島々と海の風景です。海に出て、ただ静かに竿を出しながら眺める時間が至福のひと時です。以前は来島海峡まで足を延ばしていましたが、最近は多々羅大橋周辺で釣りを楽しむことが多いです。瀬戸内は島があるおかげで海が穏やかなのも魅力です。
 幼い頃から海が身近にあり、魚を捕ったり釣りをしたりして過ごしてきましたが、こうした体験が、いまの「海の景色」への思いにつながっていると感じます。



【プロフィール】
木曽 太一(きそ たいち)
1976年11月生まれ 広島県尾道市出身
1999年3月   福山大学 経済学部経済学科 卒業
1999年4月   尾道造船株式会社 入社 総務部経理課 配属
2002年4月   資材部資材課
2015年4月   船舶営業部新造船営業課 主査
2016年4月   資材部外注課 課長
2018年4月   設計部開発設計課 専門課長
2020年10月 資材部資材課 課長
2022年4月   資材部 次長
2024年7月   尾道造船株式会社 退社
2024年7月   笠井工業株式会社 代表取締役社長 就任
現在に至る

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